ソクラテスと倫理③ —― 魂への配慮と想起説
今回は、前回に引き続きソクラテスの倫理思想を解説していきます。
エレア派の哲学者たちやソフィストによって、古来の「徳」のあり方、ノモスとピュシスの一致は最早アテナイにおいて顧みられなくなりつつありました。混迷を深めていくポリスにもう一度あるべき姿を――倫理学の始まりを告げたソクラテスの情熱を見ていくことにしましょう。
「魂への配慮」
ソクラテスの「無知の知」は、善や美、真理を知ることの不可能性、人間の限界の自覚を伴うものでした。その意味で「人間並みの知恵」というソクラテスの言葉はほとんど同じ意味に理解することができます。そこに通底するものは「知っている」という驕りを戒め、かつ「知ることはできない」と放り出すことをよしとせず、少しでも知ろうと知を求める(=哲学する)態度です。
これをソクラテスは「魂への配慮」、と呼んでいました。即ち、魂をできるだけ健全な状態へと導くこと、そして少しでも知ある状態へと導くことこそが彼の関心事だったのです。人として善く生きる、とは限界を自覚しながらその中でベストを尽くす、ということに他ならない。こんな風に言うこともできるでしょう。
想起説 —― 「教えること」の可能性
さてしかし、ここで一つ疑問が残ります。繰り返しになりますがソクラテスは「無知の知」を自覚する人物であり、また善や美といった事柄について自分は何も知らないと公言していました。裁判中には「自分はかつて誰の教師だったこともない」と述べているほどです ―― この言葉はそれらを「知っている」と自称し人々に教え回っていたソフィストたちへの当て付けでもあったわけですが、ならば我々はどうすれば「徳」を手にすることができるのでしょうか?
ソクラテスの主張が正しければ、「徳」について知っている人間は一人もいないことになります。即ち「我々は「徳」の獲得を目指しているが、何を目指しているのか正確に分かっている者はいない」ということです。これでは、「徳」や「知」に近づいたのかどうかすら実際には分からないことになるでしょう。
他方、もし「徳」を知っている人間がいるとするなら —— これはソクラテスとは異なる見解ですが —— そもそも答が分かっているわけですから、それを共有すれば話は済みます。つまり、
① 求める対象が分からなければ探しようがなく
② 求める対象が分かっているならば探す必要がない
ということ。これを探求のパラドックスというのですが、これは「無知の教育者」とも言うべきソクラテスにとって無視できない問題です(他方、ソフィストたちは知っていることを教えているだけなので問題ありません)。問答法は確かに無知を明らかにするかも知れませんが、知に近づくわけではない。実際、『メノン』という対話篇の中で、ソクラテスはこの書名ともなったメノンなる人物(現在のギリシア中部・テッサリアの貴族)から「徳は教えられるものかどうか」という問いとともにこの問題を指摘されています。
メノンから提示されたパラドックスに答えるために、ソクラテスはメノンの召使に幾何学の問題を出します。一辺の長さが2の正方形があるとして、その面積は幾つになるか? 召使は「8」だと正しく答えますが、この二倍正方形の一辺の長さを問われると「4」と答えました。つまりこの召使は、正方形の一辺の長さと面積との関係を正しく理解しておらず、「思い込み」の状態にある。しかしソクラテスが幾つか問い掛けを重ねる内に、正しい答に辿り着きます。つまり、答が予め分かっていなくとも探究は可能であることを例示したのです。
では、この探究において召使には何が起こっていたのか。ソクラテスはピタゴラス学派などで論じられていた魂の不死(輪廻転生)を引き合いに出して回答を試みます。魂は不死であるのだから、現世ではまだ知らなくとも、以前の生や所謂あの世においてあらゆるものを既に見て学んで来ているのではないか ―― そして我々が「学ぶ」と呼んでいる行為は、実際には既に潜在的には知っている事柄を「思い出す」ということなのではないか。これが、現在では想起説と呼ばれているものです。
人は白紙の状態で生まれてくるのではない
ソクラテスは著作を一つも書いておらず、現在私たちが知ることができるソクラテスの思想はその弟子プラトンの対話篇によるところがほとんどです。とはいえ、この対話篇はあくまでプラトンの著作ですから作中のソクラテスの言葉の何処までが実際のソクラテスに由来し、何処からがプラトンに由来するのかは定かではありません。想起説は今ではプラトンの思想として知られるものとなりましたが、この考え方は以降、生得観念説などの下地として哲学史に大きな影響を遺すことになります。
大きなポイントは想起説は人を白紙の状態で生まれるものとは捉えず、また単なる知識の教授を教育とは考えない、ということ。問答法が示す通り、問いと回答の試みの中で、少しずつでも各人の内側にあるものが表に出てくることこそ望ましい。知識偏重型の教育への反省が進む昨今、まだまだソクラテスから学ぶべきことが我々にはあるようです。