創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

創造的教育協会は「思考」と「学び」をテーマに高知県を中心に活動する一般社団法人です。

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またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

イデア論を考える① —— 「善のイデア」と太陽の比喩

 

先回、本ブログではプラトンイデア論について取り上げました。
ソクラテスが問答法を通じて追い求めた事物の「定義」を与えるものでもあり、また私たちが確かな「知識」を持ちうることの根拠としての役割を持つもの。私たちの魂は、この世界を離れた何処かでこの「イデア」を経験しており —— 例えば「美」については「美のイデア」を経験していることで —— この世界における「美しいもの」を「美のイデアの似姿」として、まさに「美しいもの」と認識することができる。イデア論はこの意味で、我々が「何かを知ることができる」ということを説明する仮説だとまずは見ることができます。

今日はこのイデア論について、もう少し踏み込みながら見ていくことにしましょう。

存在の根拠としてのイデア

まず注目しておきたいことは、イデア論は私たちの「知」を説明するものである一方、プラトンはこれを事物の「存在」の根拠としても位置づけている、という点です。

この世界で私たちが出会う事物は、全てイデアという真の実在のコピーなのだ、というプラトンの思想については以前にも少し触れました。例は何でもいいのですが、例えば「犬」というものを考えてみる。私たちが「犬」を「犬」だと認識できるのは、私たちの魂が「犬のイデア」を何らかの形で知っているからだ。これがイデア論の知識に関わる側面ですが、もう一方で、この世界に存在する(私たちが日常的に触れる)「犬」はこの「犬のイデア」に似ていることによって「犬」である。こんな風にプラトンは考えました。

プラトンが晩年に著した対話篇に『ティマイオス』という著作があります。その作中でプラトンピタゴラス教団の一員ティマイオスイデア論を展開させます(この対話篇の主人公もティマイオスとなっています)。その述べるところによれば、この世界の内にある万物は創造主デミウルゴス:本来は職人などを意味する言葉)によって創られたものであり、その創造の際に範型(見本)となったのがイデアだと言うのです。世界の内に存在する「犬」は元々「犬のイデア」を見本に創られたもの —— こうした意味合いで、「犬のイデア」は「犬が在る」ということ、また何らかの事物が「犬である」ことの根拠となっているのです。

他方、少しだけ注意しておきたいのはこのイデア論の図式はプラトンの中でも年月とともに変化しているらしいこと。これ以前には、プラトンイデアの「分有」という言葉で説明を試みています —— 「犬」が「犬」なのは、「犬のイデア」を分かち持っているからなのだ、と言い換えれば分かり易いでしょうか。この「分有」モデルと上に見た「範型」モデルの差をどれくらい根本的な違いだと考えるのかは、現代でも研究の対象となっています。

しかしいずれにせよ —— 見られたものという本来の語義とは裏腹に —— イデア」は感覚の対象ではなく、知性的にのみ理解されうるものです。またそれ故にこそ、問答法を通じてその理解に迫る、というプロジェクトが成り立ったのだとも言えるでしょう。

 

善のイデア

さてしかし、我々にこのイデアを文字通り「知る」ということが、果たして可能なのでしょうか。実際、プラトンソクラテスに「善美の事柄については何も知らない」、と無知の知を標榜させているわけで、この点についてあまり楽天的なことは言えないように思います。

けれど、プラトン(=ソクラテス)の目的が失われたピュシスとノモスの一致だった、という以前の論点を思い返すならば「善く生きる」こと、即ち無知の知を自覚して傲慢な思い込みを退けながら、少しでも知に近づくべく知を求める(=哲学する)ことこそが人間のあるべき姿でした。

このため、プラトンにとっては「善のイデア」こそが求めるべき最高のものだ、ということになります。この善のイデアに到達する時にのみ、人間は最も善く、つまりは完全な仕方、最もあるべき仕方で生きることができる。我々はそれを知らないが、しかし、それに少しでも近づくよう努めよう。これがソクラテスのテーゼでもありました。

さてしかし、これでは「善」、また「善のイデア」という言葉は分かったにしても、その内実はちょっと不明瞭すぎる —— 本人もそう思ったのかどうかは分かりませんが、プラトンは『国家』という対話篇の中でソクラテスの名を借りてもう少し踏み込んだ説明を試みます。しかし勿論、あくまで「善そのもの」は分からないので比喩的なものとして。この比喩が「太陽の比喩」と呼ばれるものです。

太陽の比喩

『国家』の中で、グラウコンなる人物(プラトンの兄)がソクラテスに尋ねます。善とは何であるか —— 当然ソクラテスはそれを知らないので答えられないとするのですが、どうしてもとせがまれた末、善に似たものとして太陽を挙げるのです。

太陽は光を発しており、この光によって我々は対象を見ることができる。こうした意味で太陽とは対象を照らし、また同時に私たちに「視覚」があることを明らかにするものです。これは勿論のこと感覚の話ですが、「善のイデア」もまたこの太陽と似た役割を担っている、と考えを述べています。

「善のイデア」は、太陽が対象を照らすように諸々のイデアを照らし、我々の魂(=知性)がそれを見ること、観想することを可能ならしめる。そしてまた同時に、私たちに「知性」があることを明らかにする —— 言うなれば、想起という事柄自体が善のイデアの賜物である、とプラトンは考えていたわけです。

ものごとの定義を知る、つまりイデアの認識に至ることがソクラテスプラトンの文脈において「善」であることは疑いありません。善く生きるために必須の取組みが、感覚に惑わされないものごとの知性的認識の追求であったと言えます。「善のイデア」とは、こうした「善」がそもそも成立することを可能にするものであり、その限りで最も善いものであり全ての「善」のモデルである。恐らく、こうした図式をプラトンは念頭においていたのでしょう。またこうした内実により、「善のイデア」は理論上、全てのイデアに対して特権的な地位を与えられることになりますが、これも善=知の追求というソクラテス以来のプロジェクトからすれば当然と言えるでしょう。

 

次回以降はもう少しイデア論を扱った後、プラトンの政治思想を取り上げることにしたいと思います。