創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

創造的教育協会は「思考」と「学び」をテーマに高知県を中心に活動する一般社団法人です。

事業内容は幅広く、 1.幼稚園、保育園への教育プログラム提供 2.幼児向け学習教室「ピグマリオンノブレス」の運営 3.中高生を対象としたキャリア研修 4.企業研修 5.社会人を対象とした思考力教室の運営 など、 老若男女を問わず様々な人たちに「よりよく学ぶ」実践の場を提供させて戴いております。
またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

プラトンと政治 —— 紀元前5世紀のアテナイ、再び

 

ここ何回か、イデア論を巡ってプラトンの著作『国家』に何度か言及してきました —— こんな風に思われた方もいたかも知れません 。「『国家』ということは国家論? プラトンは政治思想家だったの?」と。答から言えばその通りです。より正確には、プラトンは(近世に至るまでは珍しくないように)様々な領域を扱うジェネラリストでした。

今回からは少しイデア論を離れて、プラトン政治・国家論を見ていくことにしましょう。とは言っても、実際のところ彼の政治・国家論はイデア論と密接に関連付けられており、ここでそちらを見ておくと一層プラトン思想の全体像がよく分かる、ということでもあるのですが…...

また視線を転じる前に、改めて当時のアテナイの様子、取り分け政治状況を見ておきたいと思います。プラトンは紀元前427年の生まれとされており、師であったソクラテスとは40歳以上年が離れています。その彼が過ごした時代とは、どんなものだったのでしょうか。

 

 アテナイの政治制度変遷 —— 民主制の開花まで

ついでと言うことで、この機会にアテナイの政治制度(国制)の変遷をざっくりと辿っておきましょう。実はプラトンアテナイの名門とも言える一族の出身なので、ルーツを辿るという意味でも無関係ではありません。

最も古く半ば神話の時代、アテナイ王制を敷いていました。その終わりは、ドーリアと呼ばれる人々によるペロポネソス半島アッティカ地方(現在のギリシア南部)への侵入と同じ頃となります。アテナイ最後の王と呼ばれるコドロスは「王が死ねば戦いに勝つ」という神託に殉じてアテナイドーリア人の侵攻から救ったとされる英雄であり、以降アテナイはアルコン(執政官)が最高指導者を務める貴族制により運営されることになるのです。プラトンはこのコドロス王の血を引く一族に生まれたと言われています。

さて、この貴族制はアレオパゴス会議と呼ばれる機関により維持されていましたが、徐々に平民階級と貴族階級の間には軋轢が生じてきます。その理由は、ポリスにおいて政治参加の権利はポリス防衛の義務を果たすこととセットだったから。時は重装歩兵による密集戦法が主流の時代であり、経済力の向上と安価な武器の普及により平民階級もまた貴族とともに戦場の一翼を担うようになります。これに応じた政治的地位を平民階級が求め始めたというわけ。およそ紀元前650年頃のことです。

この対立の解消に努めたのが、古代ギリシア七賢人の一人と目されるソロン(B.C.639頃 — B.C.559頃)でした。この人もまたプラトンの血縁(プラトンから六代遡った祖父の兄弟)なのですが、貴族と民衆の間にあった不平等を是正すべく改革を実施します。これは大いに効果を発揮した一方、やはり民衆側の勢力は強まり続け、ギリシア僭主が権力を握る時代(僭主制)を迎えます。「僭主」とは民衆(=非貴族)の指示を背景に権力を手中に収めた権力者を指す言葉であり、貴族制を抑え込んだ民衆の代表とも言える存在でした。代表的な僭主はソロンのはとこであり友人でも会ったペイシストラトス(B.C.600 ―― B.C.527)。独裁的ではありましたが、非常に優れた指導者であったと言われています。

この後、一時は貴族勢力による揺り戻しがあったものの、クレイステネス(B.C.565 — B.C.500)が民主派のリーダーとして実験を握ると、有名なアテナイ直接民主制の基礎が作られます。クレイステネス民会への全市民の参加(ここで言う全市民とは、奴隷でない男性、という意味になります)を促し、これを最高決定機関として位置づけていく。またここで議論する議題を検討するための五百人評議会を設置したことでも知られています。

更に時は移って、アテナイの民主制が最盛期を迎えたのがペリクレス(B.C.495 — B.C.429)の時代。彼が将軍職(事実上の最高権力者の地位)にあったのは紀元前444年からの15年間であり、ペルシア戦争に勝利した直後。対外的にもアテナイが栄華の絶頂にあった時期、ソクラテスが20代半ば~40歳に差し掛かろうとしていた頃に当たります。余談ながら、ペリクレスは後期自然哲学者アナクサゴラスの弟子でもあり、当時の人脈ネットワークの存在を伺うことができます。

さて、こうして後世に名を遺すことになるアテナイの民主政が成立に至ったわけですが、クレイステネスペリクレスらも基本的には民衆の支持を得た貴族であり、その意味では僭主的であったことは注意しておくべきでしょう。ペリクレスの支持基盤となったのは、ペルシア戦争アテナイを中心とするギリシア海軍がペルシア海軍を破ったサラミス海戦で、船の漕ぎ手となった従軍者たちだったと言われています。船の漕ぎ手ならば、歩兵のように装備を自前で用意する必要すらない —— 更なる政治参加の要求に応える形で権力を手にしたのがペリクレスでした。

 

アテナイの政治制度変遷 —— 最盛期以降

ペリクレスは、財産の乏しい市民に対しては民会に参加することで日当を払う、という制度を導入します。これは確かに大いに政治参加を促進するものでしたが、他方でアテナイ市民を怠惰にした、とプラトンは対話篇『ゴルギアス』でソクラテスの名を借りて批判しています。これをどう評価するにせよ、アテナイの栄華は儚いものとなった ——ということは以前にもご紹介した通りです。

ペロポネソス戦争(B.C.431 - B.C.404)の開始から敗戦に至るまでを、アテナイ混迷の時代と呼ぶことは、既に見た通りで不当ではないでしょう。 紀元前427年生まれのプラトンは、その混迷とアテナイの凋落を青年期にまざまざと目撃していたことになります。

ペリクレスの在任中、アテナイは有利に戦局を運んでいましたが、彼が疫病で亡くなると次第にアテナイは不利になっていきます。政治の側でも専門的な訓練を受けていない民衆が急激に参加を増やしたことで衆愚制と言われる状態になっていきました。この時期を代表する扇動家アルキビアデスはかつてソクラテスの弟子でもあった人物です。

そんな中、スパルタとの講和を模索した勢力がクーデター紛いに四百人寡頭政治と呼ばれる寡頭制(≒貴族制の復活)を樹立し、更にその直後には民主派により打倒されるという事件が起こりました。四百人寡頭政治の関係者は厳しく罰され、続々と処刑が執行される恐怖政治が横行します。

その後、アテナイが戦争に敗北すると民主派に変わり三十人僭主政治と呼ばれるスパルタを後ろ盾とした権力集団がアテナイを牛耳るようになり、彼等もまた恐怖政治による権力維持を図ります。ちなみに、その主要人物であったクリティアスも若き日にはソクラテスの弟子だった人ですが、この人はソクラテスの存在を危険視して30歳以下の青年との会話をソクラテスに禁じる措置を講じた人でもあります。

結局この三十人僭主政治も短命に終わるのですが、その後に復活した民主制こそがソクラテスを死に追いやったもの….........ペリクレスの死の直後に生まれたプラトンは、凋落の一途を辿ったアテナイとその政治的混迷の中で育った、いわば負の歴史の生き証人でもあったのです。

また勿論、こうしたアテナイの混乱は以前にも見た「ノモス」の凋落、そしてソフィストたちが主導したとされる利己主義の蔓延を伴なうものでした。次回以降はプラトンの政治・国家論の内実を見ていくことにしますが、こうした負の記憶を如何に乗り越えていくか、という問題意識がプラトンにあったことを押さえておいて下さい。