プラトンの政治理論③ —— 個人の徳と哲人王思想
簡単に前回の復習から。
国家の徳とは、「知恵」・「勇気」・「節制」 の3つ —— 国の統治者が担う「知恵」と、軍人ないし貴族が担う「勇気」、そしてその他の人々の欲望が制御されている状態としての「節制」でした。これらはいずれも、国家を保持するために必要だと思われるものです。
この3つと共に成立すると考えられたのが、議論の中心となる「正義」です。ソクラテス(=プラトン)はこれを「各々が各人の職分に専心している状態」 —— それ故に各人はそれぞれが受け持つ徳、「知恵」や「勇気」を遺憾なく発揮することができ、また(余計なことを考えないので)「節制」も保たれる。
この図式は、ペルシア戦争後の爛熟期から凋落を迎えていたアテナイにおいて、とりわけ実感の伴うものであったと想像されます。各人が己の利益を考え、「知恵」も「勇気」も「節制」も、また勿論「正義」もない。そのアテナイを見て、まだ「正義は他者の利益であり、不正は自己の利益である」などと嘯くのか。現にポリスは傾いているではないか......
こうした議論を前提にしつつ、対話は個人の徳へと進みます。
個人における徳と魂の三区分説
ここでソクラテス(=プラトン)は個人においても事情は同じなのではないか、と考察を進めます。つまり国家に「知恵」と「勇気」と「節制」、そして支配者(王)と協力者(軍人・貴族)とそれ以外の人々(平民)がいたように、人間の魂にも3つの異なる部分があり、正義とはそれらが本来のバランスを保っていることなのではないか、と考えるのです。この発想を、現在では魂の三区分説と呼んでいます。
具体的には「理知的部分」・「気概的部分」・「欲望的部分」の3つの区分が提示されるのですが、これは次のように説明されます。例えば、喉が渇いていれば私たちは飲み物を欲します。こうしたシンプルな欲求が「欲望的部分」です。一方、私たちはその飲み物が安全かどうかを気にかけているし、危険だと分かればそれを飲まない —— これが「理知的部分」です。
すると同じもの(安全かどうか分からない飲み物)を、同じ人が同時に欲していて、かつ欲していないということがありうる。もし魂が1つであるとしたら、矛盾した欲求を持つとは考え難いので、これは魂の2つの部分がせめぎ合っていると理解すべきだろう —— こんな風に、ソクラテスは魂を部分に分ける考え方を主張します。
同じように、例えば自分に非があると自覚しているならば、甘んじて罰を受けるということが人間にはある。これは「気概的部分」が「欲望的部分」を抑え込んでいるパターンです。また、気概のある人が常に理知的に振舞うかといえばそうでもないので「気概的部分」と「理知的部分」もやはり区別した方がいい。
こんな具合に、ソクラテス(=プラトン)は国家と同じ構図を人間の中に見出します。「理知的部分」が欲望を司り、「気概的部分」がそれを助ける。そして「欲望的部分」(非理知的・非気概的な欲望)はこれらに制御されていることが望ましい —— 知恵・勇気・節制という同じ徳が人間にも見出されるということです。
ならば、「正義」とは「理知的部分」・「気概的部分」・「欲望的部分」という魂のそれぞれの部分が、各々の役割を適切に果たしている状態となるでしょう。理知的部分の指図の元、気概的部分がそれを助け、欲望が制御された状態こそ人間における「正義」だということになります。
これは論理というより対話上の戦略ということになりそうですが、このように国家から個人へのアナロジーを経由することで、正義が失われること、即ち「不正」が自らを滅ぼすことへと結び付けられている点に注意するとソクラテス(=プラトン)の主張は分かり易くなります。アテナイは現にこんな有様ではないか。それが国家のあるべき正義が失われたからだとすれば、個人における不正もまた同様に身を滅ぼす......。
魂の本来的あり方が損なわれ、身体もまた台無しになるのだとすれば、如何なる富や地位を得ていたとしてもそのような生は生きるに値しない。グラウコンとアデイマントスも、「不正」こそがピュシスに従ったあり方ではないか、という見解を取り下げることになります。
哲人王思想
さて、それでは国家において「知恵」が、また個人において魂の「理知的部分」が健全に働き、よく正義が実現されるためには何が必要なのでしょうか。今日まで追ってきたプラトンの思想を振り返るならば、およそ想像がつくという方もおられると思います。ここで求められることこそが「哲学する」ということ、即ち「知っている」という驕慢を退け「無知の知」を自覚し、しかし「どうせ正解などない」という相対主義にも陥らずに真理を求め模索することなのです。
それだけで上手く行くのか、ただの楽観論ではないのか、という批判は勿論のことあり得るでしょう。しかし、ソフィスト的な利己主義を克服するための道として他に選択肢はあったでしょうか。「ノモス」(=法)を「人間が定めたに過ぎないもの」から「ピュシス(人間の本来的な在り方)」に沿ったものに少しでも近づけて一致させるため、またそうした生き方をアテナイに取り戻すための希望をプラトンは「哲学」に託したのです。哲学と政治の統合こそが彼の目標でした。
ならば、国家においては「知恵」を受け持つ守護者、統治者こそが最もよく哲学に通じていなければならない。哲学者が統治者になるか、統治者を哲学者にするか —— いずれの道も困難ではあるが、不可能ではないとプラトンは考えました。これが哲人王思想です。現代風には理想的君主を求めたという言い方もできますが、その理想の内実をプラトンがどんな風に埋めたのかについては注意しておくべきでしょう。国家本来の在り方、人間本来の在り方を実現できる国家運営こそがプラトンの理想像です。
実際、プラトンはシケリアの名望家ディオン(プラトンの弟子でもありました)に請われてシケリアの僭主ディオニュシウス2世の教育を試みもしました。1度目はプラトン60歳の時、また2度目は66歳の時です。結果は不首尾に終わりましたが、理想の実現に向けて情熱を燃やし続けていたことが伺われます。またプラトンと言えばアカデメイアに学園を創設したことでも知られていますが、これも教育にかけた思い故でしょう。現在も用いられている「アカデミー」、また「アカデミック」という語はこのアカデメイア —— 当時は地名でしたが、やがてプラトンの学園を指す言葉になっていきます —— をルーツとするものです。
今回はここまで。
次回はプラトンの政治思想がここからどのように変化したのかを見たいと思います。