イデア論を考える③ —— 洞窟の比喩と哲人王思想
前回、前々回と本記事ではプラトンの対話篇『国家』を参照しながら、プラトン自身がイデアに関する説明として持ち出す「太陽の比喩」、「線分の比喩」を見てきました。今回はそれらに続く第三の比喩、即ち「洞窟の比喩」を見ていきたいと思います。3つの比喩の中では一番有名なものなので、聞いたことがある、という方もおられるのではないかと思います。
けれどその前に、ここまでに触れていなかったことを1つだけ。それは『国家』という著作が政治思想を、もう少し細かく言えば国体論を扱うものだったということ。またその中でプラトンは哲学を収めたものが統治者となることを最良の国制と見なす、いわゆる哲人王思想を展開していたのだということです(哲人王思想については、他に改めて記事を書きたいと思います)。
その際イデアとはまさにこの哲人王が学ぶべきものであり、真実ないし正解を把握した上で統治が実践されることをプラトンは理想としていた。このことを前提に、今回の記事をお読みいただければ幸いです。
洞窟の比喩
洞窟の比喩そのものは、イデアと私たちが住む世界との関係を比喩的に説明するものとして(一端は哲人王思想と切り離して)読むことができます。舞台設定がやや複雑ですが、順に見ていきましょう。
洞窟内の囚人
① 地下深くの洞窟に繋がれた囚人たちがいると想像してください。彼らは物心ついた
頃からずっとここで身動きが取れず、また眼前の壁面以外には視線を向けることも
できないような状態で拘束され続けています。
② 囚人たちの背後には塀があり、更にその向こうでは篝火が焚かれています。また、
塀の上では様々な事物の像が代わる代わる置かれたり、移動したりしています。
③ 囚人たちは篝火の灯りによって、壁面に事物の像の影を見ることができます。
しかし当然、それ以外のものを見ることはできません。
このような状況に置かれると、囚人たちはどんな風に考えるでしょうか —— 彼らは壁面に映る影の他には何も見ることができないし、見たこともないのだから、この影こそが本物の実在なのだと考えるだろう。このようにプラトンは言います。これは、前回の線分の比喩と照らし合わせるならば「映像知覚(エイカシア)」の段階、即ち最も低い認識レベルの比喩になっています。
囚人の解放
今、囚人たちの中から1人を縛めから解放したとしましょう。この人は後ろを振り向き、塀の向こうにある篝火の明るさにまず苦しむに違いありません —— けれどやがて眼が慣れると、塀の上にある像を直接に見て、これまで自分たちが見てきたものはこの像の影だったのだと気付くでしょう。これが「確信(ピスティス)」の段階です。
しかしこれらはまだまだ不完全な認識、偽物を本物と思い込んだ「臆見(ドクサ)」、可視的世界の中でのことに過ぎません。この解放された囚人を、今度は洞窟の外、太陽の光の下へと連れ出してみよう、とプラトンは話を進めます。
洞窟の外には、塀の上にあった像のモデル、つまり「本物」(=真の実在、イデア)が存在しているはずです。とはいえ太陽のあまりの眩しさに、彼はそれら実物をすぐには見ることができない —— 徐々に眼を慣らしながら、まずは水面などに移る実物の像を眺めるでしょう。これが「論理的認識(ディアノイア)」、更に言い換えると幾何学的認識のレベルです。水面に映った像は、確かに実物の特徴を反映したものであり、実物の大きさや色、形を伝えてくれる。この意味で、洞窟の中にあった置物の像とはわけが違うのです。その意味で、既に「真の認識(グノーシス)」の領域には踏み込んでいると言えます。
ここまで来て、ようやく最後に解放された囚人は実物を眼にすることができるでしょう —— これが「直観的認識(ノエーシス)」、つまりイデアを直接に眺めている状態なのです。そして彼は、太陽こそが全てを照らす大元なのだということにも気づく。即ち、太陽とは善のイデアをなぞらえたものに他なりません。
してみると、この比喩は可視的世界を越えたイデアの領域を捉えることの困難を受けて、逆に可視的世界のもう1つ下の領域を想定して、可視的世界 —— 可知的世界の関係を洞窟内(下位の可視的世界) —— 洞窟外(上位の可視的世界)の関係へとずらしこんだものとも言えるでしょう。
この「洞窟の比喩」は図式としては分かり易く、またそれだけにショッキングなものに映ります。この通りなのだとすれば、私たちのほとんどは洞窟の奥底で繋がれ、偽物のそのまた影を真の存在だと思い込んでいる哀れな存在に過ぎません。なるほど、これでは「善く生きる」ことなど覚束なかろう、というのも分かる気がしてきます。
賢者は洞窟に戻る
洞窟内に繋がれた囚人を、太陽の下に連れ出すこと ―― これは取りも直さず、その人物を哲学者にすることでもあるわけですが、そのためには何よりも「教育」が重要であるとプラトンは考えました。実際、『国家』には音楽・体育の初等教育に始まり数学・天文学・弁論術、そして哲学へと進む教育プログラムが詳細に語られてもいます。しかし、誰もが哲学に通じイデアを直観することができるかと言えば、そこまで楽天的ではなかった。むしろ、その水準に達する人物はプラトンの思想が進展するとともに徐々に理想に過ぎないもの、非現実的な想定と見なされるようにもなっていきます(この辺りは、プラトンの政治理論を扱った記事をご覧下さい)。
とはいえ、仮に理想的な真の認識にまで到達し得たとしたなら、その人物はどのように振舞うのでしょうか。洞窟に囚われたままの人々を後目に、太陽の光を浴び、美しい世界に憩うことのできる賢者 —— しかし、彼は再び洞窟の中へと戻っていかねばならない、とプラトンは論じます。未だ暗闇の中にある同胞を導くことが彼の指名なのです。
指導者としての賢者の行く末を、にも拘らず、プラトンは必ずしも順風満帆なものとは考えていなかったようです。それもそのはず、洞窟の中の人々は太陽を見たこともなければ「本物の事物」を見たこともない —— 偽物の像の、そのまた影こそが本物だと信じる人々は、真実を語る賢者を嘲笑うでしょう。ここには、師ソクラテスの無念を想うプラトンの心情が現れているのかも知れません。
しかしいずれにせよ、真理に到達し卓越した人物による政治、哲学と政治の一致という理想は、プラトンの思想における最大のポイントの1つでした。このことを次回以降は見ていきたいと思います。