創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

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またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

プラトンの世界論③ ―― 宇宙の調和

前回、前々回と本記事はプラトン宇宙論の概要を辿ってきました。確認してきた図式としては、前回の最後にまとめた通り、

 ① モデルとしてのイデア

 ② 材料としてのコーラー

 ③ 変化の原動力としてのヌース

 ④ 変化の目的としての善

これらを生成変化する世界を説明する要素としてプラトンは提示しています。世界の創造主たるデミウルゴスが、理想的な存在としてのイデアを見本に、コーラー(場所)において諸々の諸物を創り出す。またそれら諸物は、より善いを状態を目指すヌース(知性)を創造にあたりデミウルゴスから授けられている。簡単に整理し直した図は、このようになっていました。

では、このようにして創られた世界における当の変化は、どのように考えられているのか。プラトンの締め括りに、これを今回は見ていきましょう。

 プラトン四元素説

以前にも触れた通り、プラトンが提示する世界観は彼以前の哲学者たちの議論をいわば総まとめしたようなところがあって、そもそもイデア論からしてもパルメニデスエレア派による変化しないもの、本当の実在という問題を引き継ぐものでした。他方、生成変化を説明する力としてのヌースはアナクサゴラスから受け継いでいる。その上で、プラトンはエンペドクレスも述べていた地・水・火・風の四元素説を採用して変化の説明を試みていました。

ここには大まかに2つの段階があって、1つがデミウルゴスによる創造の段階。これは正にイデアをモデルとした創造に相当するわけですが、プラトンの考えでは、材料としてのコーラーから地・水・火・風の四元素が創られると同時に、これら元素により構成されている諸事物が生じる。現代の私たちの感覚で言えば、例えば人間の身体を0から作るということは、その身体を構成する炭素を始めとする様々な原子をも同時に作ることになる ―― これと同じように、デミウルゴスは諸元素を創ることで同時に諸事物をも創造していることになるわけです。両者の創造は、行為としては1つの同じ行為なのだと言ってもいいでしょう。

2つ目の段階は、デミウルゴスが創造した後の話、つまりは世界の中での変化に関する説明です。当然ながら、プラトンは四元素の組み合わせの変化によって私たちが日常的に経験する世界の変化を説明します。またプラトンが1つのものと見られた宇宙全体にもヌースが備わっていると考えていたことは前回に触れましたが、一方で、今取り上げた地・水・火・風はヌースによる働きかけがなければ、秩序だった動きから外れていくともプラトンが考えていたことにここで注目しておきましょう。ヌースが善を目指すという点と考え合わせれば、世界には善に向わない要素もまた含まれているということになります。つまり四元素説プラトンにとって、創造された世界の基礎的なパーツであると同時に、それ自体として混沌へ向かう傾向を持つ要素としても位置づけられていたということです。

 

ピタゴラス学派の影響

こうしたプラトンの図式が、ヌース(=知性)によるコントロールがなければあるべきバランスが失われてしまうとする『国家』における「正義」に関わる議論と密接に関連づけられていることは注目に値するでしょう。国家や個人が徳としての「知恵」により導かれていなければ「勇気」や「節制」のバランスとしての「正義」が損なわれるのと恐らくは同様に、この世界もヌースによる統御がなければ秩序を失う ―― つまりは善が失われていく。プラトンが様々なレベルで同型の議論を展開しているというこのことは、彼の説明体系の一貫性を示すものだと言えます。

また、もう1つプラトンの世界論を特徴づけるものとしてはピタゴラス学派の影響を挙げることができます。プラトンは火と土を対極にある要素と位置づけ、その中間に風と水の要素を置いているのですが、【火】:【風】=【風】:【水】=【水】:【地】という類比関係が成り立つと考えていた。また火は正四面体、風は正八面体、水は正二十面体で土は正六面体、という具合に幾何学的な特徴を持つものとして記述しています —— 重要なのはこれらが(とりわけ科学的な意味で)真実であるか否かではなく、その背景にある思想です。つまりは、プラトンピタゴラス学派と同様に、「調和」を宇宙のあるべき姿として理解していたということ。彼は宇宙を完全な形、すなわち球体であると想像していましたが、これも調和こそ最上とする思考に裏打ちされてのことです。

すると、この「調和」もやはり「正義」と関連づけられていることが見えてくる ―― 「知恵」が「勇気」と「節制」を制御してバランスが取れた状態が「正義」であり「善」であるとする考え方もまた、同様に「調和」を重んじる態度として理解できることになります。

そして更に、この在るべき姿を認識することが知性(=ヌース)の役割、言い換えれば「知恵」の役割であるとすれば、ピュシス(=人間の本来的な在り方)としての「善」を追究する哲学者の在り方もまた、同じ世界像の中で理解することができるでしょう。私たちはデミウルゴスによる創造の際に既にヌースを与えられており、それ故にイデアを認識し、また「善」を実現する可能性に僅かながら開かれている。このように言うことができます。

 

本来ならば「善」に向かい調和しているはずのものが、知性による導きを失い混乱し、滅びていく……『国家』の政治論においても見出されたイメージが、プラトンにおいてはより広く貫徹された図式であることが分かって戴けるかと思います。またそのイメージを、プラトンは彼の先達の議論をまとめ上げる中ではっきりと定式化することができた。ここに、哲学に限らず何かを学ぶということの意義がある。プラトンを離れるにあたり、この点に少し触れておきたいと思います。

想像してみて下さい。プラトン以前の議論を参照することなく、彼は自身の思想体系を構築することができたでしょうか? 考えるための言葉をそこから得ている以上、先行する議論抜きに新しい議論が成立するとは考え難い。また同様に我々も、ただプラトンの言葉だけを見てその真意を汲み取ることは簡単でないことが分かります。ほとんどの場合、言葉にはそれなりの歴史があって、特別に含まれた意味合いがある。それを知っていなければ読み取るべきものはなかなか読み取れないものです。

勿論、プラトンの考えたことが全て、それ以前の歴史によって説明され尽くしてしまうわけでもありません ―― しかしその説明できない部分、すなわちプラトン独自の新しさを理解するためには、やはりプラトン以前を知っている必要があるでしょう。翻って言えば、私たちは自分に先立つ言説についての自覚がなければ、自分が何を言おうとしているのかすらよく分からない、ということになりかねないということにもなります。

発信と受信、両方のための言葉の蓄積。

哲学のプロセスとはどうもそういうものでもあるらしいと、感じて戴けたならば幸いです。