創造的教育協会の「哲学ブログ」

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多様性 Diversity ―― 幾つかのキーワードで現代を考えたつもりになる①

この記事は2020年12月31日の夜(だいたい21時頃~)に書いています。

晦日ということもあり、何か1年を締め括るような内容を書き残すことができれば、と思っていたのですが、悲しいかな「2020年」について、何かすっきりとまとまった考えを筆者はまだ持ち合わせていないようでした。けれど、この明瞭でないものを整理して明確にしていくことは、十分「哲学する」ことの実践であるはずです。

ならばこの際、今が西暦何年かということは考えずざっくりと「現代」という仕方で、また何となく「重要な言葉」扱いを受けている語を取り上げつつ、思うところを述べてみてもいいのではないか ―― その結果、何かこのブログらしい観点が提示できるかどうかやってみよう。

こういうわけで、年の瀬も押し詰まったこのタイミングで「幾つかのキーワードで現代を考えたつもりになる」と題して、年明けを跨いでつらつら考えてみたいと思います。最初のキーワードは「多様性 Diversity」。私たちはこの言葉をどのように理解しているのでしょうか? また、どのように理解していくべきでしょうか?

多様であるということ ―― 複数であること

さて、最初に次の点をお断りしておきたく思います。それは、本記事で取り上げるのは日本語の「多様性」ではなく、「多様性」と訳されている英語、diversity(ダイバーシティ)だということ。日本語で「多様性」というと「色々な種類や性質、傾向のものがあること」くらいの意味になるかと思いますが、「ダイバーシティ」という語にはもう少し含みがあり、そのように含まれた意味合いを抜きに現代の「多様性」を取り上げることは難しい。このように筆者が考えるからです。

また、ここで取り上げる「多様性」とはいわゆる「生物多様性」などを含まないことも先に述べておきたく思います。大まかに言うと、

 ①「性別、年齢、国籍」等の多様性 統計学的な特徴ないし属性の多様性)

 ②「思想、価値観」等の多様性   (意見の多様性)

これらのいわば「社会的な多様性」が本記事が念頭に置くものとなります。加えて、この言葉(ダイバーシティ)が元々は社会的マイノリティの人々の雇用促進、処遇改善を目指して提唱されたものだったことに注意を向けておきたく思います。本記事はこの意味合いを一応前提にしていますが、もう少し広い意味合いで考えようとしていますので、この点で不適切なものとなっている可能性があるということです。

 

その上で、まずは「ダイバーシティ」という言葉の成り立ちを確認しておきましょう。英語の綴りは"diversity"。この言葉の由来を遡っていくと、ラテン語の"diversitas"という語に行き着きます。またこの語は「分離」を表わす接頭語の"dis-"が”versitas”に結び付いたもので、後者の"versitas"は"verto"という動詞が元の形。これは英語の"turn"に近い語義を持つ言葉で、「回転する、向きを変える」といった意味を持っています。最後の"-ty"(ラテン語の"-tas")は日本語の「-性」に相当する部分で、これらを総合するとdiversityとは「様々な方向に分離している性質」というくらいの意味になるのです。

(どれくらい一般的なのか自身はありませんが)音楽のグループが「音楽性の違いで解散」とか「方向性の違いで解散」というような話題をたまに耳にする気がします。差し当たりdiversityはこの「バラバラの方向を向いている状態」を表わしていると考えると分かり易いと思います。バラバラ、という意味で確かに多様ではあるのでしょうが、むしろ離れていく側面を強調した言葉だということです。

 

多様であるということ ―― 矛盾、あるいは対立として

diversityが本来持っているこのイメージは、「ダイバーシティ」という言葉が現在では担っている肯定的な響きには反するものですが、実際、辞書で"diversitas"を引いてみると古くは"contradiction"(矛盾)を意味する語だったことが確認できます。現代英語のdiversityも、辞書を引くと「相違点、食い違い」という意味を今なお持っているのだと分かる。

このことは「多様であること」が常に「一致しないこと」と裏表の関係になっており、それ故に対立・矛盾を必然的に含むものとして理解されていたことを表わしています(あくまでラテン語のdiversitasに相当する語を持つ言語圏では、という話であることに注意して下さい)。するとダイバーシティの尊重」とは、ただ多様な他者の存在を受容するということではないことにもなるでしょう。そこに不可避的に伴っている矛盾や対立を含めて他者を受け入れるということが「ダイバーシティ」という言葉には含意されているはずなのです。

マイノリティの尊重、という言葉は一見すると分かり易い。社会的には少数派に属する人々の雇用や処遇を多数派と同等にしていくことにも、平等という観点から言えば価値があるはずです。しかしそこに軋轢があってはならないと考えるとしたら、それは恐らく間違いになってしまう。社会の中に1つも衝突が起こらないなどということがあったとしたら、それはその社会が始めから同質であった場合、つまりは多様でない場合だけでしょう。

衝突しいがみ合うことを肯定したい、というのとは少し違います ―― しかし、衝突やいがみ合いのない世界は、もしかするともう多様ではないのかも知れない。少なくとも「上手くやれば、あるいは正しくやれば、1つの衝突もなく多様性を達成できる」という考えは「多様性」の意味を履き違えていると言わねばならないように思います。

 

多様であるということ —— 同じであることの否定

「多様性」が含み持つ「不一致」は、単純には「私(たち)と貴方(たち)は同じではない」という、当たり前と言えば当たり前に過ぎる事実認識を表わしたものに違いありません。しかし私たちは、(どういうわけか)「同じ社会の一員」として多様性を引き受けようとしている。あるいは、引き受けることを求められている。「多様性の尊重」というテーマが社会の存在を前提としていることは間違いのないことでしょう。

しかし、不一致を前提として一致すること。これは口にするほど簡単なことでしょうか? 同じ社会の一員として考える時、私たちはお互いをまさに「社会の一員」として考え、それ以外の要素を括弧に入れているように思われる。もう少し言い換えると、私たちが「社会の一員」として振舞う時、個性は必要とされないということになるでしょうか。個人の不一致を意図的に等閑視することで社会的な一致が成立しているという側面が、どうもあるように思われます。これはつまり、「多様性」は「社会」という文脈に根本的な部分でそぐわない要素だということです。

すると、次のようにも言うことができるはずです。社会に対して「多様性を受け入れるべし」と要求することは、場合によっては「社会に属さないものを社会に帰属させろ」と主張するに等しい ―― つまり、矛盾なのです。これは「同じであることを拒否するものを同じに扱う」ことと同義だと言ってもいいし、「一致しないものを一致するものとして扱う」ということでもある。個人のレベルと社会のレベルを安易に短絡した結果としてこの矛盾が生じているのではないか、と筆者は考えます。

 

「同じ」であることの意味

「多様性」などというものは画餅絵空事に過ぎず、不可能である。このように言いたいのではありません。むしろこのような帰結を招くのだとすれば、「多様性の尊重」を「社会に属さないものを社会に帰属させる」ことだとは考えない方がいいのかも知れない。

そこで、もう1つの可能性を考えましょう。「社会に属するものを社会に帰属するものとして扱う」ことが、「多様性の尊重」が意味するところではないか ―― つまり個人のレベルでは如何に多様であったとしても、こと「同じ社会の一員」である限りは、同じものとして扱わねばならない。こうした主張であると考えれば、取り合えず矛盾は生じないように思われます。「同じものを同じに扱う」。非常に分かり易く平等、公平であるとも感じられるでしょう。

この「多様性」に関する理解に私たちは満足できるでしょうか? これは結局のところ、「同じ社会の一員である限り、個人の個性を考慮しない」という意思表示でもあります。これこそが「多様性の尊重」だと主張する人は、それほど多くないのではないかと筆者には思われます。とはいえ他方、「同じ社会に属しているはずなのにそのように扱われない」ということがまさに差別であり迫害であるとすれば、「同じ社会の一員である」ということを多様性と不一致を越えて認めることが「多様性の尊重」だということにもなるはずです。逆説的ですが、「私(たち)と貴方(たち)の違いなど(社会的には)どうでもいい」という態度こそが多様性の尊重だと言わねばならないようなのです。

更に言い添えると「多様であるが故の個人レベルの不一致、衝突はあるだろう。しかしそれは社会レベルでの関心事ではない」ということ。多様性を尊重する社会とは、多様性に対して無関心な社会なのではないか。全ての人が「同じ社会の一員」である以上の特徴を持たない存在であるとみなすことが、その行き着く先であるように思われます。

 

 

さて、これで納得できるでしょうか?

次回ももう少しこのことを考えてみたいと思います。