創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

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またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

多様性 Diversity ―― 幾つかのキーワードで現代を考えたつもりになる① その2

「多様性」という言葉はその中に「不一致」を含んでいる ―― 多様であるということは互いに何かしら違っているということのはずですから、これは不思議でも何でもありません。しかし「多様性を尊重する社会」というものを考えた時、この不一致は何処に行くのでしょうか。これが前回に考えた内容でした。(前回記事はこちら)

もし「一致しないものを一致するものとして扱う」ということなら、ここには無理があるように見える。またこの矛盾を避けるために「同じものを同じに扱う」ということが「多様性の尊重」だと考えるならば、その時、社会は多様性を考慮しない(=多様なものを同じものと見なすために不一致を無視する)ことでしかこれを達成できないように思われる。個人のレベルでは多様であったとしても、社会のレベルではこれを捨象するということです。

しかしこれは、恐らく「多様性の尊重」として語られる望ましいイメージからはかなり外れたものになってしまっている......ならば、こうした考え方の何処に取り違いがあったのでしょうか? 引き続きこのことを考えてみたいと思います。

 社会の内外

さて、ここでちょっと考え直してみましょう。前回は「多様性の尊重」とは「同じ社会の一員として」不一致を受容することだ、ということを前提していました。この前提は(実際に「多様性」が語られている文脈を考慮すれば)不自然ではないかも知れませんが、しかし前回の結論はこの点に大きく依存していました。この前提を考え直せば、また違った結論にもなるでしょう。

次の点に注意を向けてみます。「多様性の尊重」とは「一致しないものを一致するものとして扱う」ことなのか、それとも、「一致するものを一致するものとして扱う」ということなのか? この2択は、他の部分はどうあれ「社会的には一致するものとして扱う」点で変わりありません。もう少し露骨に言うと「個人レベルでは一致しないものを、しかし社会的には一致するものとして扱う」ということか、「社会レベルでは一致しているものを、その通り一致するものとして扱う」ということか。これが前回の2択の正体だと言えそうです。こうやって見ると気付きますが、実はこれは二者択一の選択ではなく、両立が十分にあり得る。いや、それどころか同じ事柄を別に語ったものだと言うべきものでしょう。そこでは「個人の多様性を社会のレベルでは無視する」という視点設定、「社会」的な観点が外せない条件になっているのです。

こう考えると、私たちがイメージする「多様性」(と筆者が考えるもの)は、どうも「一致するにせよしないにせよ社会的には同じものとして扱う」ということではないらしい。「一致しないものを一致しないものとして尊重する」ことが「ダイバーシティ」という言葉に込められた理想のはずだということです。すると「社会」という視点設定は、「多様性」とは相容れないようにすら思えてくる。「社会」という概念が成員の共通点・一致点を前提に成立するものだとしたら尚更のことでしょう。

あるいは、こんな風に言ってもいい。社会は常に内側と外側のライン設定を伴っているものなのだ ―― 例えば「日本社会」という時、これは最大限広くとっても「日本」の内側を意味していることでしょう。それは日本人であることよりも広く、また日本の領土内に居住していることよりも広いかも知れない。ですがそれでも「日本社会の外側」があると考えなければ、「日本社会」は「世界」と同じ意味になってしまいます。そして、その内側に属するものを「同じ社会の一員」として等しく扱う ―― 常に全ての成員が等しく扱われるとは限らないにしても、原理的にはこうした特徴を現代の「社会」は有してきたと筆者は考えます。だとすれば、多様性の尊重とは社会の外側にあるものを、そのままで尊重することであるように思える。「同じ社会の一員」としてではなく、「社会に対する他者」として尊重すること。これが多様であることの意義なのではないでしょうか。

 

「社会」から「公共圏」へ(?)

もう一度、本記事の主張を確認しましょう。

 ① 一致しないものを一致しないものとして尊重することが「多様性の尊重」である

 ② しかし「社会」はこれとは逆に、一致を前提としてしか機能しない

 ③ ならば社会において多様性を尊重することは不可能ではないのか?

このように筆者が述べるまでもなく、そもそも「社会」というものは多様な人々の個別ケースに合わせて対応するということが苦手なものです。ここには効率化の推進という側面、またある種の平等の達成という側面もあるものの、1つの基準やルールを全員に適用して初めて社会の健全な(?)運営は成り立つ。ここで「多様性」が消去されることは、社会機能とのトレードオフの関係になっているとみなければならない。善し悪しではなく、そういうものなのです。

しかし、私たちの生活が全て「社会」の内側でのみ行われているのかと言えば、これはそうではないでしょう。その外側にこそ「多様性」が確保される余地がある。すると問題は、社会の内に多様性を取り込むことではなく、多様な個人がそのまま多様でいられる領域を広げること ―― 翻って言えば「社会を狭める」ことなのではないか。個人と社会、という対立に重ね合わせれば、これは容易く理解できるでしょう。個人の領域が広がれば、その分だけ社会の影響力は減じていくものです。

では、この「社会の外側」を何と呼ぶのか。ここは少し言葉を借りて「公共圏」と呼ぶことにしましょう。これは哲学の文脈で用いられる術語で、簡単に言えば「個人」と「社会制度」の中間領域を表わす言葉なのですが、恐らく筆者がここで言及したいものもそう遠くないだろうと思います。

社会の領域が広がれば広がるほど、「社会的でないもの」は少なくなる。そのため、「公共圏」は歴史的には衰退したものと理解されています。しかし「多様性の尊重」を達成しようと思うならば、この領域を我々は再度構築しなければならない ―― それも、「多様性」を尊重するような公共圏として構築し直す必要が恐らくはあるのです。この数十年の間に存在するようになった「グローバル」という単位に対応し、自分との一致点を持たない他者をも排除しない領域。繰り返しになりますが、これを「社会」という限りは、何処かで矛盾を抱えてしまう。視点を切り替えねばなりません。

 

このように考えると「多様性と包摂」、”Diversity & Inclusion”という標語も、何処かに危うさを含んでいることになるでしょう。インクルージョンとは何かを「含んでいく」というほどの意味の言葉ですが、しかし、私たちは多様性を何処に含ませていくべきなのか? この問いをなくして「多様性の尊重」はないことを指摘して、今回はここまでとしたいと思います。