創造的教育協会の「哲学ブログ」

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○○主義 -ism —— 幾つかのキーワードで現代を考えたつもりになる③

「○○主義」と聞くと、どんな印象をお持ちになるでしょうか。

筆者の感覚からすると、少し遠慮したいというか、遠ざけたいというイメージをお持ちの方が結構な割合でおられるのではないかと感じています。特に前回に取り上げた「分断 Division」との関係で言えば、「分断」をもたらす当のものと見る向きもあるのではないでしょうか。

しかしこの言葉は、それ自体ではこれと言って否定されるべき意味内容は持っていません。辞書的には「継続的に採用されている考え・主張」、「思想上の基本方針」くらいの意味になります。またそうした思想に基づく社会制度等も「○○主義」と呼ばれますが、こちらは副次的な意味と言えるものです。

かなり大まかになりますが、まとめると「考え方」と「その考え方に基づいて作られたもの」を指すだけの言葉が、何処か独特の重みをもって私たちに感じられるとしたらそれは何故でしょうか。今日はこのことを考えてみたいと思います。

 "-ism" と名の付くものたち

「○○主義」と日本語訳される語は大体の場合、英語では"-ism"(ギリシア語の"-ισμός[ ismós]" に由来するラテン語の接尾辞 "-ismus" からの派生)という形を取ります。有名なものでは「資本主義 capitalism」、「社会主義 socialism」、「自由主義 liberalism」、「平和主義 pacifism」、「民主主義 democratism」といった辺りでしょうか。

一方、逆に "-ism" の側から見ると哲学史上には「○○論」と訳される例が沢山あります。こちらの例は「運命論 fatalism」、「決定論 determinism」、「観念論 idealism」など。他の有名どころではヨーロッパ絵画における「印象派 impressionism」も "-ism" です(それ以外の例としては「封建制 feudalism」なども挙げられます*1)。結構バラバラな印象ですね。

基本的にはこれらは全てヨーロッパ語を日本語訳したもの。それなのに同じ ”-ism” に大して複数の訳語があり、しかもそれが不自然なものでないとしたならどういうことでしょうか ―― それは恐らく、 "-ism" という言葉は広い意味を持っていて、場合に応じて強調されるニュアンスを汲み取り訳し分けることが妥当だった、ということでしょう。とはいえ、広い意味を持つとしても、根っこの部分は1つなもの。果たしてどんな意味がこの言葉にはあるのでしょうか。

 

「○○主義」と名の付くものたち

今度は逆に、「○○主義」に応じるものを見ていきましょう。1つは今しがた確認したばかりの "ism"。英語でその他に対応づけられている言葉を探すと、 "principle" と "doctrine" という2つが目立ちます(他にも対応はありますので、気になる方は確認して下さい)。これらのおおよその意味を見ることにしましょう。

"principle" は「原理」や「原則」と訳されることが多い言葉ですが、語源的に遡るとラテン語の "primus" に行き着く言葉でこれは「最初のもの、第一のもの」(≒ first)を表わす語です。ここから「起源」や「原因」を意味するとともに、特に複数形で「基礎」を表わしたりもする。日本語でも「主義主張がはっきりしている」とか「主義がある」という割合耳に馴染んだ言葉も、この辺りの意味で理解できるでしょう。つまり、どんな要素を最も根本的なのものとして(≒最も考慮すべき要素として)考えるか。そこに定まった見解を持っている人を「○○主義者」と呼ぶわけです。

この意味で見ると、「○○主義者」と呼ばれる人は「○○」を原理的なもの、最も重要な要素として捉えていることになります。「自由主義者」は自由を重んじるし、「平和主義者」は平和を重んじる ―― そして、それをベースにものごとを考え、世界を理解しようとする人たちのことなのです。

さてまた、この「原理」や「原則」という言葉、このブログで既に何度も眼にしたという方もおられるでしょう。そう、ギリシア語の「アルケー」に対応する言葉も、実はこの "principle" なのです。日本語で「あの人には哲学がある」という言い方をする時には、だいたいここで言う "principle" が対応していると考えられることも付け加えておきましょう。「何かを原理として見定め、そこから一貫したものの見方をして行動している」という様子が「哲学がある」と表現されているのです。哲学のルーツはアルケーの探求ですから、そう間違っているというわけでもなさそうです(とはいえ、厳密にその通りかと言われるとどうかなという気もしますが)。 

もう一方の "doctrine" ですが、こちらは「理論」や「学説」の他、「教説」、「方針」という意味がおおよそ対応します。"principle" との関係で見ると、何かを原理ないし原則として採用した際に、そこから引き出されてくる諸々の言説を指すものだと言えるでしょう。つまり、「何を最も重要と考えるか」という "principle" としての「主義」と、その "principle" に基づいて形作られた「理論や考えのまとまり」、すなわち "doctrine" としての「主義」、この2つを同時に「主義」という1つの語で表しているのです。哲学史上しばしば登場する、上にも見た「○○論」はこの後者の意味を強く採った結果「主義」ではなく「論」と訳されたのだと理解できます。絵画の「印象派」の "ism" もこれのことだと見てよいでしょう。

また面白いのはこの "doctrine" 、対応づけされるギリシア語は「ドグマ」というのですが、こちらは(現代英語では)あまりいい印象で用いられる言葉ではなく、一応は「教説」の意味で理解されているものの宗教的な含みで「教理」の意味合いが強く、また宗教への不信を込められてしまったのか「思い込み」や「独断」を意味することが多い語です。"dogmatism" 、イコール「独断主義」なんていう言葉もあります。これは学問的な根拠なく盲目的に何かを正しいと決め込む態度のことで、教条主義とも呼ばれるものです。私たちがイメージする「○○主義」の負の側面は、もっぱらここに由来すると言っていいのではないでしょうか。

 

主義を持つということ

こうした事情を見ると「○○主義」が持つ負のイメージも何となくですが掴めるのではないでしょうか。つまり「○○主義」とは何かしらの思い込みや決めつけと結び付いていて、危ういものである ―― 確かに、そういった一面はあるだろうと筆者も考えます。しかし他方、「○○主義」が何か一貫した知見を私たちにもたらすことも恐らくは事実なのです。

主義がないということは、上の内容から考えれば自分の視点を固定しないということであり、また自分の意見を固定しないということになります。それの何が悪いのか ―― これも筆者にはそう簡単に否定できないことなのですが、しかし気にかかることはあります。そうやって何かを基礎として、また主義として定めることなしに、例えば「何が正しいのか」、特定の状況で「どう行動すべきか」といったことを考えることができるのでしょうか? あるいはその時に答を出すことができているのに「主義を持たない」と嘯くのだとしたら、その方がよほど危ういことなのではないでしょうか? 主義がないということは、極端には意見を持たないということになりかねません。

法律に従う時、私たちは何らかの意味合いで「法治主義」の実践に参加していることになるでしょうし、現代において「立憲主義」のあり方は常に問われ続けていると言っても過言ではありません。私たちは知らず知らず「○○主義」の中を生きているのです。常にその「○○主義」を奉じる「○○主義者」でなければならない、とは言いません。しかし態度表明が重要となる時もまたあるのではないか ―― 私たちが何を最も重要と考えるか、という問いには向き合い続けねばならない。

この意味では「○○主義」は思い込みとして退けられるべきものではありません。否むしろ、思い込みだとしても何かを原理としなくては、私たちは考えることも行動することもままならない。それ故、そこに幾らかの危険があることを承知で引き受けられたもの ―― 恐らく「主義」とはそうしたものなのです。立場を受け持つこと、決定のための責任を引き受けることが「主義を持つこと」だとも言えるだろうと思います。

また他方でこうした文脈を弁えない「主義」は、容易「正しい主義」というありそうもないものへと堕落します。正解があるなら「主義」は要らないのです ―― 幾つかの視点がありうるからこそ「主義」は成立する。そしてだからこそ、責任を持って引き受けなければならないのです。その意味で「主義」を持つということは、自身の限界に対する自覚を常に伴ったものでなければなりません。 

 

個人のレベルで考えても、主義とは「行動の原理」であり「思考の原理」です。ならば「主義がない」とは、何もできないことと同義でしょう。現実にはここまで極端でないにしても、自己を確立することと何かしら自らの主義を持つことは深くつながっていると感じます。ならば「主義」とは、もっと真剣に向き合われてもいい言葉なのではないでしょうか。

*1:この場合は、ある "principle" に従って作られた制度・システムを意味することになります。