創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

創造的教育協会は「思考」と「学び」をテーマに高知県を中心に活動する一般社団法人です。

事業内容は幅広く、 1.幼稚園、保育園への教育プログラム提供 2.幼児向け学習教室「ピグマリオンノブレス」の運営 3.中高生を対象としたキャリア研修 4.企業研修 5.社会人を対象とした思考力教室の運営 など、 老若男女を問わず様々な人たちに「よりよく学ぶ」実践の場を提供させて戴いております。
またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

抽象化 Abstraction —— 幾つかのキーワードで現代を考えたつもりになる④

「抽象化」と言うと、ビジネススキルないし思考法としてしばしば取り上げられている言葉なので、そちらをイメージするという方がおられるかも知れません。勿論、同じ言葉でもありますし基本的にはその理解で間違いないのですが、今回のテーマはその裏と表を見ること。この一連のシリーズは概して普段あまり意識されていない(だろうと筆者が思う)側面を確認していく意図があるのですが、「抽象化」についても少し気にかけておきたい部分があるということです。

「抽象的 abstract」という言葉は、日本では比較的ネガティブな意味合いで用いることが多いだろうと思います。それは恐らく「具体的 concrete」の対義語であることに起因しており「はっきりしない」、「曖昧」といった具合に理解されている ―― しかし、ちょっと驚くべきことなのですが「抽象化」とは逆に物事をはっきりさせるための方法であるとも言われています。

これはどういうことか。そこから始めることにしましょう。

「抽象化」とは「抜き出す」こと 

例によって語源を辿ってみましょう。抽象化 "abstract"は「~から離す」というくらいの意味を表わす接頭辞 "ab-" と、「引き出す」という意味を持つ "tract" から成り立っています。ここから大雑把に言うと、「抽象化」とは対象からその要素の一部を抜き出して、その点に集中して考えることです ―― また、何を抜き出すのかという点も合わせてお答えするなら「思考において重要な部分」と答えるのが一番手近なものになるでしょう。

例えば、「三角形」について考えてみるとします。よく知られた三角形の特長に「内角の和が180°」というものがありますが、こうした事柄を考える時、その三角形が「どの三角形か」という点は問題にならない。黒板に書かれた三角形でも、パソコンのディスプレイに映った三角形でもいいわけです。また「どんな三角形か」(正三角形なのか二等辺三角形なのか等)も「内角の和が180°」ということには関係がない。極端に言えばこの場合、三角形でありさえすればいいわけです。そこで、「三角形である」ということだけを抜き出して、後は括弧に入れてしまう。これが抽象化です。このような操作自体は、私たちの誰もが日常的に行っていることだと言ってよいでしょう。むしろ言語というものは、この「抽象化」なしには成立しないと言えるほどです。

こう考えると、確かに「抽象化」は物事をはっきりさせます。必要な要素だけを抜き出して、後は捨ててしまう ―― こうやって考え易くしているわけです。他方、こうして抽象化された三角形に関する事柄はどんな三角形にでも当てはまるわけですから、これもまた確かに「具体的ではない」話には違いありません。注意しないと、眼の前の三角形から話がズレていってしまうかも知れない。とはいえ、「抽象化」が極めて有効な思考の方法であることは間違いないと言えるでしょう。

やや細かくなりますが注意しておくと、ここで取り上げた「抽象化」は、より厳密には「一般化 generalization」と呼ばれる抽象化の一形態です。これは「複数の対象から共通する部分を抜き出して考えること」、つまり「三角形一般」を考えるのが「一般化」だということです。対する「抽象化」は、必ずしも複数の対象を扱わなくともいい。しかしどちらも、考えようとしてある部分を抜き出す点は同じです。

 

「抽象化」の有用性

この「抽象化」が思考法として大いに役立つことは、例えば、ある種の法則的な事柄や規則的な事柄を扱うことを考えると大いに頷けるものがあります。「雨の日はお客さんが少ない」という事柄は、数ある要素を一端は括弧に入れて ―― 曜日や季節、気温に始まり、お店であれば立地環境など ―― 「雨が降っている」という特徴だけを抜き出すことができなければ把握できません。極端な話「お客さんの数にバラつきがあることは天候と関係があるのではないか」と思い至った段階で、既に他の要素から切り離すという抽象化が働いているのです。考える必要のあることだけに注目して考える、と言い換えてもいいかも知れません(この意味では、全く重要でないことに注目してしまったりして有効ではない「抽象化」もあり得ることになります)。

また、「抽象化」ができるということは「新しい概念」を創り出す可能性があるということでもあります。仮にそれまでこの世界に存在したことがないもの、また考えられたことがないものであったとしても、一度でもその発想が得られれば、私たちは何かしら考え始めることができる。「タイムマシン」などはその一例であるかも知れません ―― 具体的にはどうやったら時間を行き来できるのかは分からないとしても、「時間を行き来する」という部分だけを取り出すことで、タイムマシンや時間旅行について考えることはできる。そうやって考えることで、具体的な姿が見えてくるということもありうるのです。

自己言及的になりますが、「抽象化」という言葉もまた「抽象化するという行為」から抽象することで考えることができるものです。こう考えると、本記事が「抽象化」について語ることができるのも「抽象化」の賜物だと言えるでしょう。

 

「抽象化」の問題

さて、そんな抽象化ですが、やはりそう旨い話ばかりではありません。その欠点は既に見たとも言えるものですが、「具体的でない」こと。もう少し言うなら「抽象化の過程で切り捨てたものが見えなくなってしまうこと」です。こちらも例を挙げて考えてみましょう。マクロの視点で物事を考えると、抽象化のあり方はよく見えてくるように思います。

1つの例としては、現代において科学主義などと呼ばれる立場に対する批判が挙げられます。科学とは一般的に(実験による)経験や確証を重んじる体系であり、これは勿論のこと科学に発展と今の地位をもたらした素晴らしいものでもあるのですが、他方では実験で計測できない事柄には上手くアプローチできない側面を持っています。つまり、科学は「抽象化」によって、計測不可能なものは最初から除外してしまっている。これ自体は批判されるべきことではないものの、にも拘らず「科学的に取り扱えないものは無いも同然」という態度を取るとすれば、これは行き過ぎです。ここには前回に触れた「○○主義」が持つ負の側面が現れていると言ってもいいでしょう。「○○主義」が定まった視点から物事を見ることを含んでいる以上、そこには見え易くなったものと見え難くなったものが必ずあるということです。

また、科学主義とも関連が深いものですが、ある種の還元主義もまた同様に問題となることがあるかも知れません。還元主義とは、例えば「人間の心の動き」を「脳の状態変化」で説明するだけでなく、極端に「人間の心の動きとは脳の状態の変化に過ぎない」として置き換えてしまうような態度を(批判的に)指す言葉です。これはつまり、人間の心に科学の対象(この例では脳の物理的状態)からはみ出す部分はないとみなす態度であり、(これ自体が今なお議論の真っ只中という問題なのですが)本当にそうなのかは大いに疑問が残ります。

あるいはより一般的な話として見れば、「人間」という概念自体が既に問題含みであると言うこともできます。「人間という名前の人間はいない」とは何処かで聞いたような文句ですが、実際その通りという部分はあり、どうしても「人間」という言葉はその中に含まれているはずの(そしてしばしば重要であるはずの)個人を置き去りにしてしまう傾向があるようなのです。これは「多様性 diversity」の問題を巡って見てきたことでもありますが、「社会の一員」として抽象化された個人はその多様さを無視されざるを得ない。これもまた典型的な「抽象化」の問題点の1つです。

社会学や心理学といった行動科学と呼ばれる分野では、しばしば「人間」がターゲットとして取り上げられていますが、これも「人間一般」を扱っているのであって、具体的な個人はそれに当てはまるものと考えられている。すると、当てはまらない部分は考えないことになってしまうわけですが、だからと言ってこれらの学問分野で人間の全てが記述できるわけではない。やはり「多様性」の喪失が「抽象化」の側面として付きまとうのだと言えるでしょう。

 

つまるところ、「抽象化」はすっきりと整理された思考を可能にする優れたものである一方、ある意味で問題を分かりの良すぎるもの、現実から離れたものにもしてしまうということ。「正しい」ということと「それが全てである」ということは別なのだ、という意識を我々は何処かで持ち続けなければならない。これを忘れた時、私たちは「分断」と呼ばれるものを経験し始めるのではないでしょうか。

それは歴史上かつてなく科学というものと深く結びついた私たち、即ち現代に生きる私たちの課題でもあるのです。