創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

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記号化 Symbolization ―― 幾つかのキーワードで現代を考えたつもりになる⑤ その2

シンボル」とは「習慣的に他のものと結び付けられた記号」であり、私たちの言語もこのシンボルの一種である。これが前回に確認したことでした。どういうことかというと「言葉」と「言葉の意味(ここでは各々の言葉が指し示す対象のこと)」、例えば「鳩」という言葉とその対象「🕊」との対応関係には偶然と言わざるをえない部分があり、他の関係がありえたということ。そしてもう一点、言語が違えばこの対応関係のあり方も随分と違うということでした。

今日はここからスタートして、「記号化 symbolization」という事柄について更に考えていきたいと思います。

 「言語」が世界を切り分けている

言葉と対象の対応関係は、実際にはかなりラフなもの ―― 「鳩」という言葉が「🕊」に対応しようと「🐓」に対応しようと、他の言葉との使い分けができていて、それぞれの言葉が各々の対象に余すところなく対応できているなら問題は無い。これが、「シンボル」が習慣的なものだということでした。そして、この対応関係の範囲(どの言葉がどれくらいの範囲に対応するか)も、実は習慣的に決まっている。ヨーロッパでは日本語の「タヌキ」に相当する言葉がなく、「イヌ」に相当する言葉で「タヌキ」の範囲もカバーしていることを前回に本記事は確認していました。

こうした事実は言語と対象の関係について、次のような解釈をもたらします。私たちが生きている世界には無数のモノがあって、そうしたモノの区別に基づいて言語があるのではない ―― むしろ逆で、言語を通じて世界を切り分けることで、私たちはモノを区別しているのではないか。つまり、区別はモノに基づいて行われるのではなく、言語に基づいて行われているということです。

仮にモノが区別の基礎であるなら、「タヌキ」と「イヌ」を日本語で区別しているのはまさに「タヌキ」と「イヌ」が別のモノだからということになる。ならば当然、これに相当する言語上の区別がヨーロッパにもあるはずです(「タヌキ」と「イヌ」がモノとして異なるなら、それはヨーロッパに行っても変わらないはずです)。しかし、確認した通りそうではなかった。区別は言語の側にあり、「タヌキ」という「イヌ」とは区別される言葉があるからこそモノが区別される。もう少し言うなら、ある言語の使用者がモノを区別するようになると、その区別を表わす言葉が生まれ、その区別が固定されるようなのです。

するとある言語体系は、その言語の使用者がどんな風に世界を切り分けているかを写しだす鏡だということにもなる ―― 使う言葉が違えば、世界の見方も違う。それ故に、厳密な「翻訳」とは実際のところ非常に困難な事柄であり、言語を跨いだ相互理解には容易ならざるものがあるのです。

 

言語と「抽象化」

言語はその使用者の世界の見方を表している。ここから、私たちは前々回に取り上げた「抽象化 abstraction」と言語の関りを指摘することができます。「抽象化」とは「対象からその要素の一部を抜き出して考えること」であり、概念を明確化する一方で、それ以外の部分を切り捨ててしまう。この操作が言語の成立に不可欠であることは、既に簡単に触れていたと思います。

【リンク】

上の例を引き続き参照すると、「イヌ」と「タヌキ」を言語として区別する時、私たちは実際に世界の何処かで生きているイヌとタヌキを区別しているわけではありません。「イヌ一般」とでも呼ぶべき抽象化された「イヌ」と、同じく「タヌキ一般」としての「タヌキ」を区別しているのです。このことは「一般名詞」という文法用語を思い出すと分かり易いでしょう ―― 言語は抽象化し、一般化されたものとの対応により成り立っており、これを現実世界に適用することでモノの区別も行われると言うことができる。

するとまた、次のように言うこともできるでしょう。ある言語が使用者の世界の見方を表わすということは、どんな風に世界が「抽象化」されているかを表すということでもある。つまり、世界の内にある様々な要素の中から、私たちがどれを重要と考え選び出すかを表しているのです。そうして成立する習慣的な言語と世界の対応づけ、それこそがここで考えようとしている「記号化」に違いありません。世界の切り分けとは抽象化により成立しているのです。

 

言語の限界

さてしかし既に見た通り、言語による世界の切り分けは、言語によってまちまちです。そしてこの切り分けモノの側ではなく、私たちの抽象化のあり方にこそ根拠を持っている —— ならば正しい抽象化、あるいは「正しい世界の切り分け方」、切り分け方の正解などというものがあると言えるのでしょうか? 筆者の回答を述べるなら、それはありそうもないことだと思われます。「記号化」という言葉は、それがあくまで習慣に基づくに過ぎないことを含んでいる ―― 言い換えれば、言語の対象となる世界の側には正しさの根拠がないのです。

更に付け加えるなら、この「抽象化」は「選ばれなかった要素の切り捨て」を不可避的に伴っているものでもありました。つまり言語による限り私たちは世界を正しく把握することも、不足なく把握することもできないらしいということなのです。これは、言語もまた世界の見方、捉え方の1つと考えるなら今は当然のことだとも言えるでしょう。「科学的な」見方が抽象化に伴う不足を伴っていたのと同じように、あらゆる視点設定は不完全なものとならざるをえない。「記号化」とは恐らく、このことを指摘するための言葉なのです。

 

言語を用いる限り、また何かしらの視点に立つ限り、私たちは必ず何かを取りこぼしている。そうして常に逃れ続けているものの中に、例えば「多様性」という言葉で表されようとしていた不一致があるのです。