創造的教育協会の「哲学ブログ」

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分断 Division ―― 幾つかのキーワードで現代を考えたつもりになる②

前回、前々回にキーワードとして取り上げた「多様性 Diversity」に続いて、今回は「分断 Division」。この数年で「社会の分断 social division, division of society」という語を聞く機会は随分と多くなり、まさに現代の鍵となる言葉の1つと言っていいのではないかと思います。

「社会の分断が深刻化している」......こんな言い回しが日常的なものになっているとしたら、恐らくこの言葉もまた「社会 sosiety」のあり様に関わる概念の1つなのでしょう。しかしそれはひとまず措いて、「分断」という言葉そのものを考えてみたいと思います。

 「分断」に含意されるもの

今回も語源を辿ってみましょう。"division"は動詞”divide”に由来する言葉で、前回にも登場した分離を表わす”di- ”と、それ自体が分けることを表わすラテン語”videre”から成り立っています。つまり、「分けて離す」(離して分ける)こと。差し当たり、これが「分断」の意味だということになります。日本語の熟語として見ても、「分ける」と「断つ」という類義語の並列構造で成り立っていると思われますので、その点ではよく似ていると言えるかも知れません。

広い意味で理解すれば”division”は単に「分けること」を意味しており、「割り算」も英語では”division”ですし、企業の「○○部門」みたいな意味でも用いられます。一頃、サッカーJリーグの一部(いわゆる「J1リーグ」)が、「ディヴィジョン1」、と言われていたあれも"division"です。必ずしもマイナスのイメージが伴う語でない、ということには少し注意しておきたいと思います。

さて、それが問題となるのはやはり社会的な文脈においてとなるわけですが、この時にとりわけ負の意味合いをもつのが「分けて離す」の「離す」という意味合いなのだろうと筆者は感じています。どういうことかと言うと、単純にグループ分けするというだけなら、これは必ずしも問題はない ―― 世代のグループ、性別のグループ、居住場所のグループ、色んなグループを作ることが可能です。しかし、それらによって人々を対立させてしまうケースがある。これが社会的な「分断」ではなかろうかというわけです。

 

「分断」の概念整理

とはいえここで、1つ注意しておきたいことがあります。それは「分断」という言葉がその実、何を表わしているのかということ。ざっくりと見るだけでも、ここには2つの視点が混在しているように思われます。

その1つは、いわゆる経済格差の拡大というもの。人類全体で考えた時、富がひと握りの資産家に集中しており、またその傾向がどんどんと強まっていることは、筆者の知る限り疑い得ない事実のようです。一方で中間層と呼ばれる人々の割合は減少しており、「貧」と「冨」への2極化が進んでいる......これは確かにある種のグループ分けではあるのですが、それが対立となっているかは自明ではありません。

対するもう1つが、思想や価値観の先鋭化です。これは必ずしも2極的なものとは限りませんが、彼我の境界にラインが引かれ、衝突をきたすようになった状態です。今なお続く世界各地での移民排斥の運動などに関連して、またもうすぐ元大統領となるだろう現アメリカ大統領の就任後に繰り返し言及されるようになった「分断」は、専らこちらの意味でしょう。

 

「多様性」と「分断」

この時、先に扱った「多様性 diversity」との関連で見ると、少し興味深い事情が見えてくるように思います。それはまさに「分けて離す」という「分断」の意味に関わってくるのですが、多様でないならば分断はそもそも起こらない。社会の成員が均質であったならば、分けることはできないのだから当然です。そして前回にも触れた通り「社会」はそのように成員を均質なものと見なすことで成立する領域だった。

かなり限定された意味合いではあるでしょうが「多様性」が認められることが「分断」の基礎条件になっている。もう少し言うなら、「分ける」ところまでは「多様性」と「分断」は軌を一にしているようなのです。ところが、「離す」という要素がその先のステージを形作ってしまう。

この「離す」もまた、やはりただの「離す」ではありません。「対立」に繋がるような集団の形成をこの「離す」は担っている。奇妙なことですが、意見の相違により生じる遠心的な作用を持つ一方で、「分断」は分かれた後の各々のグループを純化する求心的な効果ももたらしているのです。

やや単純化し単純化し過ぎかとは思いますが、20世紀後半から現代にかけての「分断」は、おおまかに次のように素描できます。第2次世界大戦後、多かれ少なかれ国際社会や国家は幾つかの理念群を共有してきた ―― 少なくとも共有しようとしてきました。それは世界規模では国際協調主義と言われるものであったり、また国内では多文化主義であったりしましたが、「社会」というものはそうあるべきだと素朴に広く共有されていたのだと思います。ところが、その推進によって生じる様々な摩擦を近年は無視できなくなっている ―― あるいは経済発展に伴い個人レベルでも生活水準が向上していく中では許容できるものでしたが、そんな時代は過ぎつつある。つまり、「社会」を1つの理念の下に統合して運営していくこと自体が難しくなっているのです。

平行して、いわゆる価値観の多様化もこの傾向に拍車をかけていると言えるでしょう。「個人」という領域が時代の流れとともにその範囲を拡大していることは間違いない ―― これを仮に「脱社会化」の動きであるとするなら、そこに「多様性」が成立する、と見ることもできます。

 

「再社会化」としての「分断」

しかし、この「多様性」は安定したものではありませんでした。その不安定性は前回に見た通り、多様性があくまでも「社会の内側での多様性」と位置づけられざるを得ない事情に由来するものだろうというのが筆者の見立てです。社会が成員の一致を前提する以上、社会の内側にある多様性は必ず緊張を孕んだものになってしまう。

すると、社会の一致点とは何なのかという争いが生じる ―― 自明だと思われていた成員間の一致点、つまり社会の基礎的な価値観を巡る対立が生じる。このように言えるのではないでしょうか。例えば、国際協調か一国主義か、この社会はどっちなんだという綱引きが始まるわけです。

多様性が社会の外側にあるならば、社会の一致点を争う必要はありません。しかし社会の内側にある多様性とは、結局のところ均質性を求めるものに他ならない。結果、自分たちこそがこの社会の基本的価値だ、と多様な人々は主張せざるをえないのです ―― これこそ「分断」がもたらす求心的効果、と上に述べたものに他なりません。意見の不一致によって分けられたものが、逆にそれぞれのグループ内では一致点を見出して先鋭化する。だとすると、「分断」とは社会の均質化への抵抗であるとともに、脱社会化した個人の「再社会化」だと言うこともできるでしょう。これまで1つの社会と見なされてきた中でのサブグループのようなものではありますが、個人が再び均質化される作用がここにはあるのです。

 

さて、このように見ることが正しいとするなら、問題の鍵はやはり「社会」に、あるいは「社会」と「個人」の関係にあるということになりそうです。「分断のない社会」とは、極端には「均質な社会」でしかありえません。しかし、個人の均質性を否定する時代を私たちは迎えている。ならば、何処までが社会なのか ―― 言い換えれば、何処までならば私たちは「同じ社会の一員」として均質であり得るのか。ここに明確な回答を示さずして「社会的な分断」をただ非難しようとしても、その試みは何処か虚しいように筆者には思われます。