創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

創造的教育協会は「思考」と「学び」をテーマに高知県を中心に活動する一般社団法人です。

事業内容は幅広く、 1.幼稚園、保育園への教育プログラム提供 2.幼児向け学習教室「ピグマリオンノブレス」の運営 3.中高生を対象としたキャリア研修 4.企業研修 5.社会人を対象とした思考力教室の運営 など、 老若男女を問わず様々な人たちに「よりよく学ぶ」実践の場を提供させて戴いております。
またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

「謝罪」についてあれこれと考える①

 

某日、高知大学の学生プログラム「Seekers」様が定期的に開催しておられます、「対話すなっく」と銘打たれたオンライン哲学カフェに参加する機会を戴きました。

テーマは「謝罪」

最近、何か謝ったことはあった? 逆に許したことは?

「ありがとう」と似た意味の「すみません」ってどう理解すればいい?…...

約2時間の意見交換を通じて、様々なことを考えることができました。折角のことなのでここで個人的にあれこれと考えたことを記録しておきたいと思います。また、急な参加を快く受け容れて下さったSeekersの皆様にこの場を借りて改めてお礼申し上げます。

 

「謝罪」をめぐる第一感

何か悪いことをしたと思った時は謝る。

改めて確認するほどのことではないのかも知れませんが、哲学カフェとはそういうもの。当日もこの点については特に異論はなかったように思います。むしろ面白く感じられたのは、「謝って欲しい」というラインに個人差が大きいことでした(ここで言う「謝る」は「一言断わる」くらいのものまで含む範囲の大きなものです)。

仕事で後輩がミスをする。後輩は謝る。たとえばこんな例でも、「別に謝らなくていいのに」と反応する人と「やっぱり一言欲しい」という人がいたように思います。また、そこで一言「すみません」と言えない人は「そういう人なんだな」と評価する、という声も。シビアと言えばシビアですが、よく分かる話とも感じました。

こう考えると、本格的な(?)謝罪からマナーの範疇に収まりそうなものまで、かなり広い範囲を考えていくことになりそうですが、どうも「人間関係」「感情」、そして「負担」「コスト」という観点から整理すると上手くまとまりそうだな、という印象を持ちました。以下、勝手に立てた仮説をもとに検討してみたいと思います。

 

ロボットはロボットに謝罪しない(?)

「謝罪」が人間同士のコミュニケーションに特有の現象であるかどうかは、どうも議論の余地がありそうですが(動物の「仲直り行動」に関する研究が社会心理学の分野で行われているとのことです)、ここでは措きましょう。それよりも、謝罪は感情に関わるものであろう、というところから始めたいと思います。

このことは「ロボットはロボットに謝罪しない」だろうことを考えるとよく分かるように思います。ただし、ここではロボットとは「ドラえもん」のように感情を備えた存在ではなく、作業機械に近いものを想定しています。たとえば、貨物の集積・分配所で自走式の運搬ロボットどうしが何かの弾みでぶつかったとする。人間どうしなら「すみません」とか「ごめんなさい」、「失礼」という言葉が出るところでしょうが、ロボットはまず謝ったりしないはずです。淡々と荷物を運び続けるでしょう。

それは「謝罪」という機能がないんだから当たり前だ…...という指摘は尤もですが、ここで注目したいのは「謝罪があろうとなかろうと、すべきことは変わらない」ケースが多くある、ということです。上に見た、職場での後輩のミスという例もこれに含まれる場合が多いかと思います。「後輩が謝罪してこようとこまいと、その面倒は先輩である自分がみるもの」という状況は想像に難くありません。その意味では、ロボットと同じように淡々と処理できたとしても不思議はない――そうでない場合があるということは、やはり感情が関わってくるのではないか、ということです。

 

謝られる前は怒っている(?)

では、どんな感情が関わっているのか。第一の候補は「怒り」でしょう。実際、「別に怒ってないのに謝られるケースがある」という例が会話中にもあったかと思います。

すると、考えるべきは「何に怒っているのか」でしょう。ここは色んな考え方がありそうなところなので、思い切って筆者の独断から入りましょう。謝罪に最も大きく関わってくる怒りの感情とは「不条理に対する怒り」ではないか。これが私の見解です。

同じ例を何度も見ますが、仕事中に後輩がミスをする。その面倒を見るのは自分です。この時に「謝るようなことじゃない」と思う人は、そのミスの面倒を自分が見ることに不条理を感じていないということではないか。逆に「一言あって欲しい」と思う人は、面倒を見るのが自分であることは承知していたとしても「なんで自分が…...」という不条理を感じている
こう見ると、様々なケースを同じ図式の中で理解できます。「謝るようなことじゃない」と思うのは、単純にその人の度量が広いということかも知れませんが、そのミスが初めて取り組んだ作業の中で起こったことで、だからそのくらいのミスは当たり前だと思うからなのかも知れません。いずれにせよそのミスは許容範囲内です。
対して、何度も繰り返された失敗がまた起こったのだとしたらどうでしょう——その度に面倒を見る先輩は、徐々に不条理を感じだすのではないでしょうか。「いい加減にして欲しい」という思いは、そのミスが許容範囲にないことの現れだと言えるでしょう。心が狭いという場合がないとは言いませんが、この種の怒りが「怒るのも尤も」と評価される類のものだろうと思います。

 

「負担」の「コスト」化

さて、このことを「負担」「コスト」という言葉から考えてみます。私たちは日々、様々な活動の中でコストを費やしている —— ちょっと無味乾燥すぎる気がしてあまり好きな見方ではないのですが、とまれ、こうした観点は成り立つものと思います。またこのコストは、幾つかの種類に分けることもできそうです。

ざっくりと「金銭的コスト」、「作業的コスト」、「心理的コスト」くらいに分けてみましょう。これらは単純にマイナスになるだけではなく、仕事をすれば報酬が得られますし(作業的コストが金銭の獲得に繋がる)、投資をすることで将来の作業コストを低減するというようなこともありえます。

以下、本記事では、これら「コスト」を「必要経費」に近い意味合いで理解したいと思います。言い換えると「支払って当然だと思われているもの」が「コスト」だということです。「そんなものでしょ」と思えるもの、と更に言い換えても構いません。先ほどの表現に合わせるなら、「不条理だとは思われていない支出」。これを改めて「コスト」と呼ぶことにします。

このことがよく分かる表現に、「それくらい仕事の内だから」というものがあります。先の後輩のミスの例でもいいのですが、ミスの面倒をするのは「仕事の内」…...つまりそれは「作業的コスト」であり「必要経費」なのです。新人はミスをするもので、それくらいは織り込み済みだよ、というわけ。

ところが、そんな風に思えないものが当然ながら世の中にはある。「それは本当にただのコストなのか」、また「必要だとしても、なんで支払うのが自分なんだ」…...このように見られたものを区別して「負担」と呼ぶことにしましょう。「負担」を「コスト」から分ける明確な違いは、その支払いに不条理が感じられているか否かです。

言葉の定義上当然ですが、この「負担」は耐え難い。「避けられないと分かっていても必要だとは思えない」わけで、こうして感じられた不条理さが怒りであると本記事は位置づけることができます。

ならば「謝罪」とは、こうした「負担」を「コスト」化するための行為の一部であると言うことはできないでしょうか。「謝罪」に「自分の非を認める」という要素が含まれているとすれば、それは相手に生じているものが「必要経費ではなく負担である」ことを認め、またその負担の発生源が自分であると認めることが「謝罪」だと言えます。

ここに「謝罪があろうとなかろうと、すべきことは変わらない」という先ほどのケースを重ね合わせて見ましょう。後輩が仕事上のミスをしたとする。たとえ後輩からの謝罪があろうとなかろうと、自分は自分で上役に謝罪せねばならない(=心理的な支出がある)というケースはあるでしょう。この場合、やることは同じと言ってもやはり感情面は違うわけで、「責任があるとはいえ、自分が謝罪するのはどうもおかしい」と不条理を感じることはある。これが「心理的負担」を負った状態ですが、もし後輩からの謝罪があれば、「いいよ、これも先輩の役割だからね」と負担をコストとして引き受けることができるかも知れない。割に合わない不条理なものを「それも含めて納得する」ことができる、と言い換えてもいいかも知れません。

 

 

 

思いがけず長くなってしまったので、今日はここまで。明日は「謝罪」と対になる「赦し」についても考えて見たいと思います。