「謝罪」についてあれこれと考える②
前回の続きです。今回も「Seekers」様主催の「対話すなっく」の回想になります。
相手の怒りを認める ―― 「謝罪」の意味
さて、このように考えると謝罪が専ら感情に関わるという理由も分かってきます。もし謝罪が「負担のコスト化」に他ならないとすれば、この時、支出の量には変化がないということにもなります。つまり、謝罪は支出がどんな種類のものとして受け止められるかに関わっており、この受け止め方の変化に感情もまた関わってくるということ。繰り返し、仕事上のミスを犯した後輩の例に戻りましょう。どの道、先輩である自分は(後輩からの謝罪があろうとなかろうと)上役にこのミスの発生について謝罪しなければならない。心理的な支出があることは確定しているということです。勿論、この上役は上役で責任を負っているわけですが今回はそこは考えないことにしましょう。
この支出をコスト(=必要経費)だと思える場合は、怒りは湧きません。「最初はミスがあって当然」と言いながら怒る人は恐らくいないはずです。これを、支出の引き受け手が不条理を感じていない状態、とも言い換えることができます。
ところが、常にその支出をコストだと思えるかどうかは分かりません。同じ失敗が何度も繰り返されたら、またその失敗が明らかな不注意によるものであったとすれば、その面倒を見るという支出は段々と不条理なものに思えてくる(そうでない人もいるでしょうが)。これが「怒り」という状態であり、このように不条理と感じられる支出を本記事では「負担」と呼んでいました。
すると「謝罪」とは「怒り」を妥当なものとして認める行為 —— その支出を「負担」であることを認める、という意味を持つ行為だとも言えるでしょう。「貴方のその支出は私の過ちのために生じた、貴方にとって不条理なもの」。こう認めているからこそ、私たちは謝罪が必要だと思うわけです。露骨に言うと「自分のせいで相手が損をしたと認めること」が謝罪には含まれている。
さてすると、「赦しを乞う」ということの中身も見えてきます。「その不条理をどうか今は引き受けて下さい」—— こういうメッセージがあるのではないでしょうか。
「申し訳ありません。許して下さい」という言葉を。こうした理解に基づいて翻訳すると「私のせいで貴方に不条理な支出をさせていることを理解しています。しかしどうか今回はその不条理を受け容れて下さい」となります。
「赦し」 ―― 不条理の引き受けと人間関係
これで「赦す」ということの内実も合わせて分かったと言えるでしょう。「謝罪」を受け容れ「今回のところは引き受けましょう」と意思表示することが「赦し」となる。
これはちょっと興味深いことで、(仮説が正しいとすればですが)相手が自分の負担を認めるならば、その負担をコストとして引き受けてもよいという思考を私たちは行っていることになります(「負担のコスト化」とはそういうことです)。
ここまではかなり損得勘定めいたものを基本に考えてきましたが、同じ路線で考えるならば、これは「人間関係の維持」にメリットがあるからだと言えるでしょう。とりわけ謝罪があったということは、相手は自分に過度の負担があったことを認識している ―― ならば今後はこんな負担が生じないことを期待していい。ならばこの関係の維持はプラスを生むだろう、ということで「コスト」として今回は払っておこうとなる。
対して、謝罪がないとすれば相手は自分が負担だと感じているものを理解していない。この場合、同じ負担が継続的に生じることが予想されます ―― 果たして、その不条理を引き受け続けてまでこの関係を維持してよいものかどうか。ここまで露骨なことを意識的に考えることは稀だろうと思いますが、大きく外れてはいないようにも思います。
「すみません」と「ありがとう」の境界例
以上で「謝罪」を理解する試みは一通り終了したことになりますが、最後に「すみません」と「ありがとう」の意味が時おり重なる、という点について一言だけ。
上の考察に従い、また「すみません」を広義の謝罪として位置づけるならば、この言葉は「相手の負担」に注目した表現だと言うことができます。他方、「ありがとう」という言葉は「自分の受益」に注目した表現だと言うことはできないでしょうか。すると、相手から自分に何らかの受益があった場合、「ありがとう」と「すみません」はともに成立しうることにもなります。
「対話すなっく」中、アドバイスに対してお礼を伝えたところ「そこは「すみません」と言うところじゃないか」とリアクションされて困惑した…...という話があったと記憶しているのですが、これは上の考え方で説明がつくように思います。勿論、気付かないところで負担が生じていたということもありうるので一概には言えませんが。
おわりに
2回に渡って「謝罪」について考えてみましたが、振り返るにちょっと「人間関係」、それも1対1の関係に焦点を当て過ぎたかも知れません。企業や著名人が自身の不祥事について謝罪するといういわば「社会的謝罪」とでも呼べそうなものを、同じ「負担のコスト化」で説明できるかどうか等、まだまだ検討すべきことは多くあるように思います(ある程度は説明できそうな気もしているのですが)。しかしいずれにせよ、今回はここまで。
今回の考察が幾らかの真実を捉えているとすれば、「謝罪」も「お礼」も、それが適切に実践できるということは自分との関係の中で相手に何が起こっているのかをきちんと意識できているということ。「ありがとう」と「ごめんなさい」の大事さを改めて感じることができた、というところで締めくくりたいと思います。