創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

創造的教育協会は「思考」と「学び」をテーマに高知県を中心に活動する一般社団法人です。

事業内容は幅広く、 1.幼稚園、保育園への教育プログラム提供 2.幼児向け学習教室「ピグマリオンノブレス」の運営 3.中高生を対象としたキャリア研修 4.企業研修 5.社会人を対象とした思考力教室の運営 など、 老若男女を問わず様々な人たちに「よりよく学ぶ」実践の場を提供させて戴いております。
またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

「学校と教育」についてあれこれ考える

 

某日夜、筆者が主催する「こうち哲学カフェ」が第1回を迎えました。
オンラインでの開催となり少しお互いの距離を感じる反面、距離を保ったまま話ができるという側面もあり…...話辛くもあり、話し易くもある。また少し違う哲学カフェの在り方を新鮮に感じています。

 

当日のテーマは「学校と教育」。
ほとんど誰もが関わったことがあり、また今後も関わっていくだろう事柄だけに考え甲斐のある主題です。カフェの最中、また後から振り返っての考察をまとめておきたいと思います。

 *本記事は当日の議事録ではなく、あくまで筆者の主観からまとめて考察を加えたものだという点にご注意ください。

 

学校教育への不満(?)

今回のテーマは、さる企業様にて採用関係のお仕事をされている方からのご提題でした。曰く、「与えられた課題をこなすことには長けているが自ら行動することは不得手で、明確な目標を持っている学生が少ないと関じている」とのこと。当日は大学生の方も参加しておられましたのでそちらにも聞いてみると、「そういう印象の学生も確かにいるとは思う」との反応(ただし自発的に動いている学生も沢山いるとのことで、ここは当然ながら注意が必要なところです)。

これは学校での教育のあり方から帰結する傾向なのではないか…...という問題意識が当日のスタートとなりました。少し違う角度からのアプローチになりますが、「なぜ学ぶのか」を実感してモチベーションとする機会が学校には乏しいように思う、という意見も。「もっと勉強しておけばよかった」というのは確かに大人にとって耳慣れたフレーズの一つですが、理由や目的があれば学ぶことはやり甲斐があり、楽しい。そんな学ぶ目的に出会うことができれば、自発的な姿勢も自ずと生まれるのかも知れません。

 

学校の役割とは

子どもたちや若者たちが自分の将来と向き合いながら、自ら学ぶことの意義を見出し、成長していくことができる環境。これは確かに目指すべきものと思われますが、他方、「それを学校に求めるのは期待し過ぎ」という現実主義的な声も。「集団生活の経験や、勉強すること(きちんと授業を受けるという姿勢)を学ぶ場所が学校であり、それ以上を求めても仕方がない」という趣旨だったかと思います。この意見もまたなるほどと思うところがあり、現状を見ても学校の先生たちはキャリア教育のプロという訳ではありません(少なくとも今のところは)。

何でもかんでも教育制度の中に詰め込んで、後は学校と先生の責任、とするのは現実的ではありませんし、先生たちの能力に求めるものが多くなりすぎる。すると、課題解決は自ずと学校の外で、ということになってきそうです。また実際、子どもたちに学びのきっかけを提供しようという大人たちの活動は増えており、質的にもどんどん向上している——学校に見切りをつけた、という冷たい言い方もできますが、他方で無意識の内に「役割分担」が進んでいるという見方もできるでしょう。

「地域教育」という言葉も定着した感のある昨今、子どもたちに所謂「学力」を目的としたものとは違う経験を提供しよう、という動きは地域の側で引き受けられつつある、と言ってよいのかも知れません。

 

最近の若者は…...というお決まりのフレーズに寄せて

こうした動きの背景には、恐らく「価値観の多様化」が関わっているのだろうと思います。要するに「生き方は一つではない」ということ ―― 一昔前に支配的だった「新卒で就職して終身雇用」というようなスタイルのリアリティはどんどんと薄れています。多様な進路があっていい。とはいえ他方、学校制度にそうした多様性に適しない部分があります(全員が同じプログラムを受けることを強固な前提としている)。また、学歴主義的な傾向も一部ではむしろ強まっている —— 多様であるからこそ却って「正解」を意識せざるを得ない側面があります。

こうなると、一方では「与えられた課題を上手くこなす」という能力(=テストで点を取る受験勉強向けのスキル)が重視されることになりますが、他方では「多様な選択肢から自ら将来を決定していく」という価値観が尊重されるというどこかチグハグな状況が成立しているとは言えないか――これは少し注目していいことだと思います。

先ほどの「明確な目標を持ち自発的に行動できる学生が少ない」という見解には確かに概ねの同意が得られたのですが、そう感じながら「成長したい、という学生たちの意欲に感心する」という意見も大いに頷けるものでした。この二面性が、現時点での教育の在り方を映す鏡なのではないでしょうか。旧来からの学校教育を受ける一方で、新しい価値観に馴染んだ次世代の姿を見る思いがします。

やがてはこの新しい価値観が学校教育のそのものを変えていくのかも知れませんが、とまれ、こんな風に見ると「最近の若者は…...」という聞き飽きたフレーズの後の言葉も変わって来るでしょう。「まったく、よくやってるよね」という具合に。まだ社会には実装されていない理念を、一足先に若者たちは実践しているような気がしてきます。

 

何処に場所を作るか?

これは私の個人的印象ですが、「大学生」はこの10~15年ほどで随分と「大学の外」に出るようになりました。彼ら/彼女らは多分「価値観の多様化」というものを私たちの時代(筆者は30半ばです)よりもリアルに感じられていて、だからこそ旧来の環境の外で自分の将来を探っている。そしてきっと、進路選択にもより大きな意義を見出している ―― いわゆる大手企業への志向に変化が起こっていることも、その傍証だと言えそうです。「明確な目標がない」という表現になるとどうしてもネガティブに見えますが、「目標を固定せず自由に可能性を探っている」と言うこともできるはず。

ならば後はそんな若者たちに、またそんな若者たちに続く子どもたちに、よりよい環境を提供することが大人の役割というもの。そのための場所を何処に作るか ―― しかしこれも、もっと自由であってよいのではないか、と思わされる部分が多くありました。

「学校の役割はここまで」「ここからは地域で」「これは個人の問題」…...こんな風に切り分けようとする考え方自体、どこか旧来からの思考に通じている気がします。現状を見れば、学校にも子どもたちにより豊かな経験の場を作りたいと考え、実際に作っている先生は沢山おられますし、地域で「しなければならない」というルールがあるわけではない。他方、地域や個人で「してはならない」ことだってないはずです ―― 数学や理科を、近所の大人が教えていたって構わない。

古い枠組みは取っ払いましょう —— 「言うは容易し行うは難し」という代表例みたいな話ですが、完全に取り払えはしなくとも新しい在り方を模索することはできる。その意味では、場所があるなら何処だっていいのかも知れません。少なくとも、場所に拘ることにそれほどのリアリティは感じない。

「開かれた学校」、「社会に開かれた教育課程」という言葉がいつからかよく聞かれるようになりました。けれどこれらの言葉はまだ「学校」という場所に拘っているし、「教育」と「社会」を分けて考えている。その感覚がなくなる時、教育はまた一歩先に進めるのではないでしょうか。

 

 

いずれにせよ考えるべきことはまだまだ多く、なすべきことはなお尽きない…...という話をしたような、また聞いたような。後から振り返ると、そんな夜でした。
創造的教育協会も筆者も、頑張っていきたいと思います。