創造的教育協会の「哲学ブログ」

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プラトンの政治理論① —— 「正義」を巡る問い

前回は、プラトンが生きた時代を特徴づけるアテナイの政治的盛衰について確認しました。王政から寡頭制(≒貴族制)、民主制へと至り、やがて衆愚制から僭主独裁という末路を辿ったアテナイ(但しその後、民主制に復帰してはいますが) —— その凋落を見届けたことによってか、プラトンには民主制への強い反省がありました。そしてそれはまた、同時期のアテナイを覆っていた「ノモス」の失墜への反省でもあったのです。

今日はこうした観点を踏まえながら、プラトンの代表的著作の一つである『国家』を見ていきたいと思います。

対話篇『国家』と「正義」の問題

『国家』はプラトンがシケリアへの旅行から戻った後に書かれた著作で、およそ紀元前430年~420年頃の時代設定となっています。まさにアテナイの混迷期、という時代背景に改めて注意して下さい。対話の主人公はソクラテス —— そして全10巻という大部の著作の中で、2巻以降は全てグラウコンとアデイマントスというプラトンの兄たちが対話の相手を務めています。

本記事では、グラウコンとアデイマントスが登場する直前、トラシュマコスという人物とソクラテスの対話から見てみることにしましょう。

トラシュマコスの主張

「正義」とは何か —— それはトラシュマコスによれば「強者の利益」に他なりません。勿論、社会通念上の「正義」は「法」に適うこと、「ノモス」に従うことであることは彼にも分かっています。しかしそんなものは、権力者によって都合よく変えられてしまうもので、結局は強者の利益のために作られている。これがトラシュマコスの主張です。

また同時に、「正義」が「平等」を志向し、「不正」が「他者の分を犯してより多くをせしめる」行為であるという社会通念を逆用して、こんな風にも言います。正義とは他人の利益であり、不正とは自己の利益である —— トラシュマコスが考える強者とは、不正を顧みず己の利益を実現する人物なのです。最早「正義」と「不正」が倫理的な水準、善悪の問題とはなっていない点に注意して下さい。不正が咎められるのは、弱者が不正を受けることを恐れて非難するからに過ぎない、と彼は言います。非難されているだけで、それ自体が悪かどうかなどということは問題にならないのです。

そうして、善悪から切り離された正義すらも法を支配する強者の思うがままになっており、しかも強者はそもそも法を守らない。「正義」も「不正」もただ強者のためにある。世も末、と言うしかない諦念に襲われそうなところですが、幾らかの誇張があったとしてもこれが当時のアテナイで影響力を持つ思潮だったことは確かなようです。「ノモス」の失墜は今や誰の目にも明らかになっていたことでしょう。

ここにあるものは、支配階級の定めた人為的ルールに過ぎない「ノモス」と、剥き出しの利己主義としての「ピュシス」です。ノモスへの不信はその支えとなっていたピュシスにまで及び、利己主義的な姿勢こそが人間本来のあり在り方だと考えられるに至っていました。弱肉強食の財産闘争・権力闘争が目に浮かびます。

ギュゲスの指環 —— 人間本性に関する思考実験

こうしたトラシュマコスの議論を引き継ぐ形で、グラウコンはソクラテスに問いかけます。自然本来の姿で見れば、他者に不正を働くことは利益であり、他者から不正を受けることは不利益に違いない —— しかし両者を比較するならば、他者から不正を受けて生じる不利益の方が大きい。そこでいわば妥協の産物として定められたのが法ではないだろうか。「不正を犯すが罰されない」という最大の利益と、「不正を被っても罰することができない」という最大の不利益の間での妥協です。

すると「正義」というのは、不正を被らないために仕方なく行っている行為だ、ということになる。そのことを示すために、グラウコンは「ギュゲスの指環」という魔法のアイテムをたとえ話として持ち出します。この指環を嵌めればたちまち姿をくらますことができ、誰にも気づかれずに不正を犯して利益を得ることができるとする。すると、人々は必ずや不正に手を染めるだろうし、やりたい放題に振舞うようになるだろう —— それは即ち、「正義」とは止むを得ず従うものであり、また他者の利益であるという証拠ではないだろうか。

また加えて、こんな風にもグラウコンは吐露します。「最大の悪事を働きながら、しかし正義の人物であるという最大の評判を受ける者」と「何一つ不正を犯さないにもかかわらず不正の人物であるという評判を受ける者」を比較すれば、前者は順風満帆、幸福な人生を送ると予想されるのに対し、後者は不正の廉で罰を無実でありながら受け、果てには処刑されてしまうだろう。すると、重要なのは「正しくあること」ではなく「正しくあると思われること」なのではないか......

アデイマントスも古典の例を挙げ、正義が勧められるのは正義そのもののためというよりも、結果として得られる評判のためであるように思う、と見解を述べます。ここでもやはり、二人は「正義」と「不正」を「善/悪」という倫理的水準からは切り離していることに注意して下さい。これは当時のアテナイにおいて、如何に倫理が無実化していたのかを示していると言えます。

しかしグラウコンとアデイマントス、プラトンの兄弟たちがトラシュマコスと違った点は、そうした現世的利己主義を避けられないものと受け容れながら、他方でその在り方に疑問を感じていたところです。むしろ二人は世俗の風潮に染まることに不安を感じていた。とはいえ他方で、ノモスとピュシスの一致、またそれを下支えとする共同体の掟といった古き時代の在り方にもリアリティを感じることができない。だからこそ、彼らはソクラテスに問うのです。「正義」はただそれ自体としてどのようなもので、何を人にもたらすのか。そして何故「善」と呼ばれうるのか。

ソクラテスは二人の情熱を喜びながら、しかし(ソクラテスらしい仕草ですが)即答することはできないと応じます。そして「正義」には個人に関わるものもあれば、国家に関わることもある —— より大きな国家の方が見やすいだろうから、国家における正義から検討してみないかと提案するのです。

 

かくして、対話篇『国家』は正義を巡って国家を論じていくことになるのですが、それはまた次回に見ていくことにしたいと思います。