創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

創造的教育協会は「思考」と「学び」をテーマに高知県を中心に活動する一般社団法人です。

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またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

現代とソクラテス ―― 今、再び哲学するということ

 

ソクラテスに関わるトピックをかれこれ10日間、あれこれと取り上げてきました。キリよく10日となったのは偶然ですが、次に進む前に、折角の機会なので現代の視点、少し離れた場所からソクラテスについて考えて見たいと思います。それは何より――記事を書き始める前には筆者自身もそこまで意識していなかったのですが――私たちが今、生きているこの時代と、ソクラテスが生きた時代には幾つかの共通点があるように思われるからです。

キーワードは相対主義とその克服。
今日までの内容を簡単に振り返るところから始めましょう。

 

 

ソフィスト相対主義 ―― あるいは神話の失効

一連の記事の中で、私たちはソクラテスにまで至る(ギリシア)哲学の歴史を

 ① ノモスの成立以前=ポリスという社会の成立以前

 ② ノモスとピュシスの神話的一致の時代=ポリス成立~(自然哲学者たち)

 ③ ノモスとピュシスの分離=ポリスの成熟~爛熟期(エレア派)

 ④ ノモスの価値喪失とピュシスの不可知論=③とほぼ同時期(ソフィストたち)

という具合に整理してきました。ノモスとピュシスについては「ソクラテスと倫理②」を、また各時期の思想については「ソクラテス以前の哲学者たち」のシリーズを読み返して下さい。
ノモス(人間の法)がポリスとともに成立した後、戦争等を原因とする社会の不安定化に伴い分離・対立し始めるノモスとピュシス(神の法・人間の本来的な在り方)。やがてノモスは「人間の法に過ぎないもの」となり、かといってピュシスは最早「知り得ないもの」となってしまう。それを象徴する言葉がプロタゴラス「人間は万物の尺度である」という言葉でした(ただしその時に少し書いたように、プロタゴラス自身が主観的な相対主義を主張したかどうかは疑問があります)。誰もがそれぞれの仕方で世界を捉えており、そこに確実な解答を見出すことはできない。

ならば、その中で最適な立ち回り方を考えようという実利主義者ないし現世主義者——これが(彼らを批判した人たちを信じるとすればですが)ソフィストたちでした。皮肉なものですが、「正解」がないという状況下においてこそ「当座の処方箋」は価値を持つということなのかも知れません。

しかし、こうしたソフィスト相対主義――絶対的な「正解」はなく、誰もがそれなりの仕方で正しい。そして重要なことはその状況下で上手くやることだという態度――これは現代の私たちが向き合うものに、2500年の時代を越えてどこかよく似てはいないでしょうか。

 

現代における相対主義 ―― あるいは神話の不在

今この記事を読んでおられる皆さんの中に、たとえば「人間の生きる道」に唯一絶対の「正解」があるという信念をお持ちの方はどれくらいおられるでしょうか。あるいは「人間一般」でなくとも、「自分の生きるべき道」が自分以外の何かによって定められているという信念ならばどうでしょう。それらをお持ちの方は、恐らくそんなに多くはおられないだろうと思います。またこれも推測ですが、この100年ほどを見てもその割合は減少しているのではないかと思います。

「価値観の多様化」という言葉は毎日のように、それこそ飽きるほど繰り返し耳にする言葉になりました。特に「多様性を尊重する」という文脈で見た場合、その意味は絶対と言える正解はない、という意識に結び付けなければ上手く理解できないように思います。そこで意図されているものは「間違っているが尊重する」ことではなく、「間違ってはいないものとして尊重する」ことだからです。

これが「正解は一つではない」くらいに収まるならまだ何とかなるのかも知れません。しかし「誰も彼もが正解」となると、最早「正解」という言葉自体が意味を持たなくなり、守られるべき規範も成立しなくなる。これは古典期ギリシアにおいてノモスが力を失ったこととシンクロした状況だと見て取ることができそうです――私たちは概ね法律を守りますが、その実、守るべき究極的な理由(=ピュシス)を実感できなくなっているという風にも言えるでしょう。

多様性は尊重する。その裏返しになる寄る辺の無さ。自分探しという言葉が定着して随分になります(そして今ではあまり聞かなくなったようにも思います)が、本来的な在り方への憧れがそこにはあるように思います。またそれとないまぜになって、世の中には「こうしたらいいよ」と指針を示す言説が溢れていく。それらの中に有用なもの、役立つものが含まれていることは間違いないでしょうが、しかし根本的な解決にはなりません。それが正解(=ピュシスそのもの)ではないことを、私たちは否応なく自覚してしまっているからです。すると「価値観の多様化」とは、実のところ「価値観の混乱」なのではないか。本当にただ多様化しただけならば、悩む必要はないはずです。

 

ソクラテスと私たち

ソクラテスが哲学を始めたのは、ちょうどそんな時代でした。本当にそれでいいのか――「本当に」という言葉が既に問題含みですが ―― 「正解」が分からないとしても、少しでもそこに近づけるよう歩いて行こうじゃないか。そんな声の主として、ソクラテスを理解することができるのです。

分かりもしない正解にどうやって近づくのか、という人にはこう答えるでしょう。それでも対話を重ねることで明らかな間違いには気付くことができるし、同意できるものもあるはずだと。想起説と問答法の裏側には、素朴と言ってしまえば素朴な、人間への信頼があるように思います。

勿論、ソクラテスが生きた時代と、私たちが生きるこの時代は別のものです。アテナイはその後、マケドニア王国に統合される形ではありましたが今でいう「ギリシア」のアイデンティティを手にしますし、また歴史的・思想的にはキリスト教という拠り所——次のピュシス(と信じられるもの)を手にすることになります。同じものが私たちに期待できるかと言えば、これは難しいのかも知れません。

それでも私たちが「人」として生きていくのならば、まさに人として、同じ何かを共有していかなければならない。だから、話を始めよう。

 

ソクラテスからのメッセージをもう一度受け取るべき時が来ているように思います。
あるいは、いつの時代だってそうだったのかも知れませんが。