プラトンの世界論② ―― 変化の原因としてのヌースと善
前回は、世界の成り立ちに関してプラトンが提示した体系的な図式について、その入口部分をご紹介しました。① 創造主としてのデミウルゴス ② 創造のモデルとしてのイデア ③ イデアを受け取る材料としてのコーラー(場所)というセットがその基本的構図となります。今回はその続きですが、ここでちょっと視線を変えましょう。注目したいのは、プラトンは彼が作り上げた世界論によって何に説明を与えようとしていたのか、ということ。
当然そこには、プラトンだけではなく当時のギリシアにおいて広く共有され、探求されていた問いがあります。これまでの復習を交えつつ考えることにしましょう。
プラトンの問い ―― 変化する世界と変化しないもの
それを考える時に再び姿を現すのが、パルメニデスに代表されるエレア派の議論です。詳細は以前の記事を参照して戴くとして、彼らの登場によって、世界における生成変化 は ―― ものごとが生じたり滅んだりを含む、あらゆる変化を指します ―― 我々が感覚しているに過ぎないものであって、本当の意味で存在しているのは「変化しないもの」だけだという見解がウェイトを占めるようになります。
黎明期の自然哲学においては、万物の根源(アルケー)を探求する試みでありながら、その内実としては自然の中にあるものからそうした根源的なものを探し出すことを目指していました。「水」や「空気」がその例です。しかし、そうしたものは生成変化すると考えられますから(現代の私たちのように、水はH2Oで空気は複数の分子の混合気体で、だから結局は原子が云々で……という思考が当時にはないことにご注意下さい)、パルメニデスが正しいとすれば説明としては不十分になってしまう。ここに、古典期ギリシア哲学の大きな曲がり角の一つがあります。
以降、自然哲学者(とその後継者)たちは「変化しないもの」を想定しながら、その「変化しないもの」によって「変化するもの」、即ち私たちが日常的に経験しているこの世界を説明することを目的としたのです。
大きな見取り図から言えば、プラトンもやはりそうした系譜の中で自身の世界論を提示している。つまりイデアとは「変化しないもの」であって、世界における生成変化を説明する理論の一部なのです。対するコーラーの位置づけはやや微妙ですが、ある材料から何を作っても材料自体は変わらない ―― 椅子を作ろうが机を作ろうが木は木だ、というように ―― 考えるならば「変化しないもの」と言えるでしょうから、本記事ではさしあたりそのように理解しておくことにします。
変化をもたらすものとしてのヌース
しかし、これではまだ十分な説明ではありません。デミウルゴスが世界を創ったとしても、ただ創られただけの世界の中には「変化を説明する原理」が含まれていない。やや逆説的ですが、感覚に現れるものは本当の存在ではないと言いながら、しかし私たちが感覚しているものがどのように生じているかはやはり説明されねばならないのです。これもまた、パルメニデス以来のギリシア哲学の課題でした。
プラトンはここに、アナクサゴラスに由来するヌース(知性)を説明のために導入します。しかも、ただ借りて来ただけではなく、そこにはプラトン流の改善案が示されてもいました。
アナクサゴラスの提示した図式は、無限の「同質のもの」と、その同質のものに偏りをもたらす「ヌース」の組み合わせで成り立っていました。ここで言う「同質のもの」はあらゆる要素をその中に含んでおり、ヌースがもたらした偏りによって、最も目立つ要素が表に出てくるようになる ―― つまり、世界における生成変化はこの偏りの結果だ、というわけ。
(もう少し詳しく知りたい方は、「ソクラテス以前の哲学者たち④」をどうぞ)
このように説明したアナクサゴラスは、しかしこのヌースを「万物のうちで最も薄く、最も純粋」なものとして位置づけています。どういうことかというと、アナクサゴラスはヌースという名前を与えながら、しかしこれをあくまでも物体の一種だと考えていたらしいということ。だとすれば、ヌースが変化をもたらすというこの図式も、ヌースが変化するからだ、ということになってしまう ―― 当然、そのヌースの変化は何処から来たのかということになるでしょう。物体とは別の種類の「動かす原因」が必要だ、と言い直してもいいでしょう。
この点を批判して、プラトンはヌースを完全に物体から切り離す体系を作り上げます。このヌース(=知性)を魂に帰属させ、この魂が宿っていることで各々の物体は動く、と説明するのです。言い換えると、世界とその内に含まれるものは、デミウルゴスによって自分から動くように作られた、「動く原因」はヌースとして各々のものに始めから含まれているのだということです。
目的としての善
さて、しかし次のような疑問をもたれた方がいるのではないかと思います。「何故、プラトンはわざわざヌース(理性)という言葉を使ったのか?」 ―― 自分から動くようにできている、というだけでいいじゃないか。この疑問は尤もなのですが、この点にも実はプラトンなりの工夫が現れているのです。
どういうことかというと、「知性によって動く」という規定は、プラトンにとって「善に向って動く」ということと同じなのです。知性とは、これまでにも見てきたように、究極的にはイデアを認識する力であり、また倫理学的な要素と関連すれば「善」とは何かを認識する力でもあります。プラトンはヌースを備えた魂が宿るとすることで、全てはより善い状態を目指して変化していくのだ、ということを主張するのです。このあたりに、分野を越えたプラトンの基本姿勢を伺ううことができるでしょう。
勿論、この知性は常に十分な仕方で発揮されているわけではなく、世界は必ずしも常に善に向かうわけではない。しかし、何かに向おうとする力そのものは備えた仕方で事物は創られている。これがプラトンの基本的な図式です。
プラトンによれば、デミウルゴスはこの世界全体を1つのものとして創り、更にその中に私たち人間を含む諸事物を創ったとされています。従ってこの世界は、
① モデルとしてのイデア
② 材料としてのコーラー
③ 変化の原動力としてのヌース
④ 変化の目的としての善
という4つを根本的な原理として成り立っていると言えるでしょう。前回にも少し触れましたが、これをより一般的な図式としてまとめたものが後にはアリストテレスの四原因説として成立したのだと見ることもできます。
今回はここまで。これで世界が創られる、という場面についてはまとめることができましたので、次回は世界の中で起こる生成変化をプラトンがどのように考えていたかをもう少し見ていきたいと思います。