創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

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またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

イデア論を考える② —— 線分の比喩と幾何学・問答法

 

前回はプラトンによる対話篇『国家』を参照して、<善のイデア>について説明する太陽の比喩を確認しました ―― 今回はそれに続いて、もう一つプラトンが提示した比喩を見ていきたいと思います。

太陽の比喩をソクラテスから聞かされたグラウコンは、一応の了解はするものの、まだ話していない事柄があれば聞かせて欲しい、と頼みます。それに答える形で述べられたのが「線分の比喩」と呼ばれるもので、これはプラトンの二世界論の構造を分かり易く喩えたものだと言えるものでした。

今回は、幾つか図を見ながら確認していきたいと思います。

可視的対象と可知的対象 —— ドクサとグノーシス

最初に、幾つか振り返っておきましょう。イデア論がエレア派以来の「変化するもの/変化しないもの」を巡る問いに関わることは既に触れました。この時「変化するもの」は同時に我々が日常的に出会う諸対象であり、「感覚的に知覚されるもの」でもありました。対して「変化しないもの」(イデアはこれに相当します)は感覚では捉えられず、ただ「知性的にのみ認識されうるもの」と位置づけられます。

この両者を明確に切り分け、また「感覚により知覚される世界」と「知性により認識される世界」をそれぞれ別の世界ないし領域だと考えるのが二世界論でした。

感覚の対象となる世界は真の実在ではなく、それを実在だと考えるのは我々の思い込みである —— エレア派のテーゼを思い出して下さい。思い込みを批判するのはプラトンも同じですが、この思い込みをドクサ(臆見)と言います。感覚とドクサは密接に関連し合っている。また感覚される世界を、ここでは(太陽の比喩の後なので視覚に絞り)「可視的世界」と呼ぶことにしましょう。すると「可視的世界 — 感覚 — ドクサ 」のセットができることになります。

他方、イデアという真の実在に関する認識はグノーシス(真の認識)と呼ばれます。同様にイデアが属する世界を「可知的世界」と名付けるなら、こちらには「可知的世界 — 魂(知性) — グノーシスというセットができあがる。

では一本の線分ABを引いて、更にその線分ABを点Cで一定の割合(ただしAC<CB)に分割して下さい。この時、線分ACの側を可視的世界、線分CBを可知的世界とする…...そんな風に線分の比喩は語られ始めます。

 

線分の比喩

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線分の比喩①

というわけで、上の図が最初の段階です。次にソクラテス(=プラトン)は、可視的世界は可知的世界の(つまり感覚の対象はイデアの)コピーである、という点をここに加えていきます。AC:CB=AD:DCとなるように、線分ACを分割しましょう。

 

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線分の比喩②

はい、分割しました。この時、ADの領域は、AC(可視的世界)がCB(可知的世界)に対して持つのと同様の関係をDCの領域に対して持っている(AD:AC=AC:CB)。これが意味するものは、我々が感覚する対象には、直接に知覚するものと間接に知覚するものの二種類があるということ。例えば、地面に映った影や、水面の像、鏡像などを通じて事物を知覚するというのが間接的な知覚。これによって得られる認識をプラトンイカシア(影像知覚)と呼びます。対して、直接に事物を見たり触ったりすることが直接的な知覚。これは間接的知覚と比較すれば遥かに明瞭な情報を私たちにもたらします。これがピスティス(確信)と呼ばれるものです。とはいえ、これらはいずれも感覚によっている限りで確実な知識とは言えず、あくまでもドクサの範囲に留まることに注意して下さい。

さて、それではもう一度 —— 今度はCE:EB=AD:DC=AC:CBとなるように、線分CBを分割です。可知的世界の方も分けてしまいましょう。

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線分の比喩③

はい、ざっくり。

ここにも本物とその映しの関係があるはずですが…...プラトンはそれを、幾何学(数学)と問答法の関係として位置づけるのです。どういうことか考えてみましょう。

ここで、以前に少し触れたことを思い出して下さい。私たちは本当の意味での「真円」を経験することはできないということ。それでも私たちが「円」を認識することができるという事実が、イデア論により説明される事柄の一つでした。幾何学とは、こうした図形を扱う学問に他なりません。

幾何学において、私たちは円やその他の図形を定義します。例えば、「円とは任意の点から等距離にある点の集合により描かれる図形である」という具合に。この定義は、私たちが経験によって得た確信を参照して得られたものである、とプラトンは考えます。そして幾何学では、この定義を仮設されたものとして、定義された図形の諸々の性質を導出していく(公理系において、定義は任意に設定されうるということを念頭において下さい)。円を上のように定理した「ならば」、「直径に対する円周角は90°である」ことが定理として導かれる、という具合です。こうして得られる知識をプラトンディアノイア(論理的認識)と呼んでいます。

ディアノイアは確かに真理です。しかし、注目されるべきは仮設された定義についてこれ以上に掘り下げられることがないということ —— 「円の定義は本当にこれで正しいのか?」という問いは成り立ちません。そして、幾何学がまだ感覚を補助として用いている点です。ここからプラトンはディアノイアを「知識」と「思い込み」の中間と考え、更に高次の認識があると結論しました。それがノエーシス(直観的認識)であり、問答法により目指されるものなのです。

問答法は、私たちが経験的に思い抱いている「定義」から始まります。しかし、それに疑いを向ける余地のない幾何学とは違い、まさにこの「定義を掘り下げる」ことこそが問答法のプロセス。またその中では、知覚された事柄が補助的に用いられることも最早ありません。これこそが「イデア」に到達するための最良の方法だ、とプラトンが考えた理由もこれで分かって来るでしょう。

 

幾何学と哲学

以上が「線分の比喩」となります。見慣れない言葉が多く出てきましたが、プラトンが自身の二世界論や知識の階層についてどのように考えていたのかが見て取れるよい図式だと言ってよいのではないでしょうか。単にドクサを退けよう、というだけではなく、それらが体系的にまとめられていることは注目に値します。

また、こうしたプラトンの説明を見ると当時の哲学者たちが数学(幾何学)を重視した理由も見えてくるかと思います。つまるところそれは、可視的世界とドクサから離れ、可知的世界、真の認識を扱う練習・実践の場であったわけです。

以降も哲学と数学は寄り添うように発展を続け、数学は人間に扱いうる真理のモデルとしての地位を確立していくことになります。