プラトンの政治理論④ —— 法の役割
一連の記事の中で、私たちはプラトンの政治理論を「正義」の追求、国制の変遷、哲人王思想といった具合に順に確認してきました。その説によれば、哲学を収めた人物 —— 利己主義や相対主義に陥らない「知恵」を備えた人物による統治こそが国家の理想像ということになります。
しかし、まだ次のような疑問が残っています。ここで言う統治者(支配者、または国家の守護者とも言われています)は、国家の成員各人をその職分に専念させ、国家全体の利益を最大化する。その人物像は分かるとして、具体的には何を為すことで国家に安定と繁栄をもたらすのか?
もう少し言い添えるなら、哲人王とは一つの理想であり、その実現が困難であることはプラトンも自覚していました。ならば現実における政治家とはどのような存在なのか?ここには、近年のアテナイに本物の政治家などいた例がない、というプラトンの視線設定も関わってくるのですが、これを扱ったプラトン後期の対話篇『政治家』を今回と次回、2回に分けて見ていきたいと思います。
王の術(政治の術)
結論から言えば、理想的な支配者、哲人王(『政治家』ではこの言葉は主題になっていませんが『国家』から問題意識を引き継いだものとして本記事ではこの語を用います)が「具体的に」何をするのか、という点についてはこの対話篇でも必ずしも明らかにされていません。
それもそのはずで、哲人王が持つであろう「知恵」はまさに理想的であるが故に手の届き難いものですし、個別具体の事例を取り上げるにも無理がある。短絡を恐れず言ってしまえば、理論とは個別的な事柄を個別的なままに扱えるものではないのです。
しかしここから、プラトンは「法律」の位置づけを試みます。法律もまた一般的なものであり、個別具体的な例に最適化したものではない。法律とはどのように理解されるべきものか。そして、法律との関係において政治家は如何に理解されるべきか。これが今回のおおよその問題設定です。
さて、では改めて統治者(=哲人王)から。この対話篇『政治家』の主人公「エレアからの客人」(筆者であるプラトン自身を重ね合わせたものと推定されます)は、統治者の「技術」とはどのようなものかについて検討を始めます。例えば医者は医術の専門家であり、建築家は建築術の専門家であるように —— 統治者は何の専門家なのか。統治者の術、即ち「王の術」、「政治の術」を明らかにすることで、統治者自身の性格をはっきりさせようということです。本記事では以下、二つの考察を取り上げて参照したいと思います。
「王の術」と「機織り術」
王の術は、機織り術 —— 即ち、横糸と縦糸から布地を作り出す技術に似ている。この洞察は『国家』の議論を引き継いだもので、縦糸は「勇気」、横糸は「節制」を表わすものとなっています。即ち、「勇気」と「節制」をバランスよく織り上げた状態(=「正義」)を実現するもの、それこそが「知恵」の役割であり統治者の技術だ、というわけ。
注目すべき点として、この比喩によって「勇気」と「節制」には適切な度合いがある、という論点が明らかになったことが挙げられます。「勇気」は過ぎると「無謀」になり、「節制」が過ぎると「柔弱」となる。丁度良い糸の張り方があるように、徳にも塩梅というものがある。
これはアリストテレスが推奨する「中庸」の考え方にも通じるものなので、いずれ改めて扱いたいと思います。
「軍隊の統帥術」、「裁判術」、「弁論術」
続いて比較されるのは「軍隊の統帥術」、「裁判術」、「弁論術」の3つです。これらはいずれも国家の重要事項に関わっておりその意味で「王の術」に近しいと考えられるものなのですが、いずれも正確には「王の術」に従属している、とエレアからの客人(=プラトン)は考えます。
どういうことか。例えば「弁論術」は国家の運営方針などを定める際に、然るべき方向へと決定を導くための説得の技術です —— しかしこの技術には、「そもそも何を説得すべきか」に関する知識が含まれていない。翻って言えば、「何をすべきか」に関する決定こそが王の術に含まれることになります。
同様に「軍隊の統帥術」も、これが用いられるのは戦争をすると決まった後の話です。この意味で、「戦争か和平か」という決定にやはり従属せざるを得ない。王の術は、その決定を担うものだと言えるでしょう。
最後に「裁判術」も同様で、裁判官は法に則って判決を下しますが、そのためには「法」がまずなければ始まりません —— すると、この「法」を定めるのが王の術だということになります。
このように見ると「国家の意思決定」こそが王の術である、という主張をプラトンから引き出すことは容易であるように思われます。また、現代的な感覚から言ってもこれはごく自然な理解であると位置づけられそうです(但し「知恵」によって、という但し書きがつくのですが )。
「次善の策」としての法律
さて、理想的な統治者は(理想的であるが故に)ありとあらゆる国策について、その都度のベストを選択することができます。それ故に、実はこの水準で考えるならば「法律」にはさほどの価値はありません —— 「法律」があってもなくても、統治者は常にベストの選択をしますし、必要があれば統治者は法律を変えもするでしょう。立法すらも支配者の仕事に含まれるわけですから、統治者の権力が制限されないという意味では法はあってもなくても同じなのです。
この点、既に見た通りプラトンは「法律」があくまで一般的なものしか扱えないことをある種の不足として見ていることが分かります。刻一刻と変化し続けるもの(=現実)を、変化しないもの(=法律)によって上手く扱えるはずがない。実際には法律は改正されうるわけですが、いずれにせよ理想的君主に必要ないことは明らかだとプラトンは考えていました。
さて、では何故に法律などというものがあるのか? —— この答もある意味では当然なのですが、理想的君主がいないからです。ここで、以前から時おり触れている「ノモス」と「ピュシス」という対概念に参照しておくことは無駄ではないでしょう。更に今回は、「テミス」(命令)と「ディケー」(判定)という言葉も合わせておきたいと思います。テミスとディケーはどちらも法に関わる女神の名前に由来する言葉なのですが、前者は「掟」、後者は「裁き」に近いものと見るのが分かり易いと思います。
古来、王による「テミス」はそのままに「ノモス」でした。またこの「テミス」という語には神的な権威の含みがあり、その意味で「ノモスとピュシスの一致」は王の命令という形で実現していた(あるいは実感されていた、受け容れられていた)と言うことができます。これが「法律の必要がない状態」、王の決定がそのまま法律と同義になった状態です。
時代が下ると、ここに法的な平等などを含意する「ディケー」という言葉が介入してくる。これは裁判に関わる言葉で、やがて「ノモス」はこの「ディケー」の側で理解されるようになっていきます。その後、「ノモス」が「人間の定めた法に過ぎないもの」となっていくのは、もう少し詳しく見ると「テミス」と「ディケー」の分離に端を発したと解釈することができるのです。
理想的君主は「テミス」だけで十分であり、常にベストの選択をなすことができる。しかし現実にはそうした君主はいない —— そのために「次善のもの」として「法律」がある。これがプラトンの見解です。また加えて、全ての「法律」はこの理想的君主による「法」(=掟)の写しであるという仮説的起源をプラトンは主張するのです。そしてこれは、「ノモス」を巡って「テミス」がその位置を「ディケー」に譲ったという歴史理解とシンクロしたものと見ることができる。
この起源主張は、仮設とはいえそのまま受け容れるには難しい部分があるかも知れません。しかし恐らくはここにこそ私たちとは違う古典期アテナイの人々の歴史観・政治観が反映されていると言うことができるでしょう —— 「ノモス」と「ピュシス」の移り変わりは、それだけ彼らにとってリアリティのある経験として記憶されていたということです。
少し中途半端ですが、今回はここまで。
次回ももう少し『政治家』を見ていきたいと思います。