創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

創造的教育協会は「思考」と「学び」をテーマに高知県を中心に活動する一般社団法人です。

事業内容は幅広く、 1.幼稚園、保育園への教育プログラム提供 2.幼児向け学習教室「ピグマリオンノブレス」の運営 3.中高生を対象としたキャリア研修 4.企業研修 5.社会人を対象とした思考力教室の運営 など、 老若男女を問わず様々な人たちに「よりよく学ぶ」実践の場を提供させて戴いております。
またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

イデア論を考える① —— 「善のイデア」と太陽の比喩

 

先回、本ブログではプラトンイデア論について取り上げました。
ソクラテスが問答法を通じて追い求めた事物の「定義」を与えるものでもあり、また私たちが確かな「知識」を持ちうることの根拠としての役割を持つもの。私たちの魂は、この世界を離れた何処かでこの「イデア」を経験しており —— 例えば「美」については「美のイデア」を経験していることで —— この世界における「美しいもの」を「美のイデアの似姿」として、まさに「美しいもの」と認識することができる。イデア論はこの意味で、我々が「何かを知ることができる」ということを説明する仮説だとまずは見ることができます。

今日はこのイデア論について、もう少し踏み込みながら見ていくことにしましょう。

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「学校と教育」についてあれこれ考える

 

某日夜、筆者が主催する「こうち哲学カフェ」が第1回を迎えました。
オンラインでの開催となり少しお互いの距離を感じる反面、距離を保ったまま話ができるという側面もあり…...話辛くもあり、話し易くもある。また少し違う哲学カフェの在り方を新鮮に感じています。

 

当日のテーマは「学校と教育」。
ほとんど誰もが関わったことがあり、また今後も関わっていくだろう事柄だけに考え甲斐のある主題です。カフェの最中、また後から振り返っての考察をまとめておきたいと思います。

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プラトンとイデア論 ―― 二世界論の端緒

 

ソクラテスは、存命中に一冊の書物も書かなかったと伝えられています。その彼の教説について我々が詳しく知ることができるのは何故かと言えば、それは弟子たちがソクラテスの言葉・思想を引き継ぎ、書き残したからに他なりません。そうした弟子たちの中に、プラトン(B.C.427 - B.C.347)がいました。

現在の私たちが抱くソクラテス像はその多くをプラトンの著作に負っており、またプラトンの著作は師ソクラテスと彼の友人・論敵らとの対話篇を中心としたものなのですが、その中にはプラトン自身の思想が相当にソクラテスに仮託して含まれていると考えられています。ソクラテスの思想を引き継ぎ独自の仕方で発展させたのがプラトンであり、このソクラテスプラトンこそが実際には西洋哲学の源流なのだと言っても過言ではありません。

今回からはプラトンを主役として暫く取り上げていきますが、まずは彼の中心的思想の一つ、イデア論を取り上げたいと思います。

 

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「謝罪」についてあれこれと考える②

 

前回の続きです。今回も「Seekers」様主催の「対話すなっく」の回想になります。

 

相手の怒りを認める ―― 「謝罪」の意味

さて、このように考えると謝罪が専ら感情に関わるという理由も分かってきます。もし謝罪が「負担のコスト化」に他ならないとすれば、この時、支出の量には変化がないということにもなります。つまり、謝罪は支出がどんな種類のものとして受け止められるかに関わっており、この受け止め方の変化に感情もまた関わってくるということ。繰り返し、仕事上のミスを犯した後輩の例に戻りましょう。どの道、先輩である自分は(後輩からの謝罪があろうとなかろうと)上役にこのミスの発生について謝罪しなければならない。心理的な支出があることは確定しているということです。勿論、この上役は上役で責任を負っているわけですが今回はそこは考えないことにしましょう。

この支出をコスト(=必要経費)だと思える場合は、怒りは湧きません。「最初はミスがあって当然」と言いながら怒る人は恐らくいないはずです。これを、支出の引き受け手が不条理を感じていない状態、とも言い換えることができます。

ところが、常にその支出をコストだと思えるかどうかは分かりません。同じ失敗が何度も繰り返されたら、またその失敗が明らかな不注意によるものであったとすれば、その面倒を見るという支出は段々と不条理なものに思えてくる(そうでない人もいるでしょうが)。これが「怒り」という状態であり、このように不条理と感じられる支出を本記事では「負担」と呼んでいました。

すると「謝罪」とは「怒り」を妥当なものとして認める行為 —— その支出を「負担」であることを認める、という意味を持つ行為だとも言えるでしょう。「貴方のその支出は私の過ちのために生じた、貴方にとって不条理なもの」。こう認めているからこそ、私たちは謝罪が必要だと思うわけです。露骨に言うと「自分のせいで相手が損をしたと認めること」が謝罪には含まれている。

さてすると、「赦しを乞う」ということの中身も見えてきます。「その不条理をどうか今は引き受けて下さい」—— こういうメッセージがあるのではないでしょうか。
「申し訳ありません。許して下さい」という言葉を。こうした理解に基づいて翻訳すると「私のせいで貴方に不条理な支出をさせていることを理解しています。しかしどうか今回はその不条理を受け容れて下さい」となります。

 

「赦し」 ―― 不条理の引き受けと人間関係

これで「赦す」ということの内実も合わせて分かったと言えるでしょう。「謝罪」を受け容れ「今回のところは引き受けましょう」と意思表示することが「赦し」となる。

これはちょっと興味深いことで、(仮説が正しいとすればですが)相手が自分の負担を認めるならば、その負担をコストとして引き受けてもよいという思考を私たちは行っていることになります(「負担のコスト化」とはそういうことです)。

ここまではかなり損得勘定めいたものを基本に考えてきましたが、同じ路線で考えるならば、これは「人間関係の維持」にメリットがあるからだと言えるでしょう。とりわけ謝罪があったということは、相手は自分に過度の負担があったことを認識している ―― ならば今後はこんな負担が生じないことを期待していい。ならばこの関係の維持はプラスを生むだろう、ということで「コスト」として今回は払っておこうとなる。

対して、謝罪がないとすれば相手は自分が負担だと感じているものを理解していない。この場合、同じ負担が継続的に生じることが予想されます ―― 果たして、その不条理を引き受け続けてまでこの関係を維持してよいものかどうか。ここまで露骨なことを意識的に考えることは稀だろうと思いますが、大きく外れてはいないようにも思います。

 

「すみません」と「ありがとう」の境界例

以上で「謝罪」を理解する試みは一通り終了したことになりますが、最後に「すみません」と「ありがとう」の意味が時おり重なる、という点について一言だけ。

上の考察に従い、また「すみません」を広義の謝罪として位置づけるならば、この言葉は「相手の負担」に注目した表現だと言うことができます。他方、「ありがとう」という言葉は「自分の受益」に注目した表現だと言うことはできないでしょうか。すると、相手から自分に何らかの受益があった場合、「ありがとう」と「すみません」はともに成立しうることにもなります。

「対話すなっく」中、アドバイスに対してお礼を伝えたところ「そこは「すみません」と言うところじゃないか」とリアクションされて困惑した…...という話があったと記憶しているのですが、これは上の考え方で説明がつくように思います。勿論、気付かないところで負担が生じていたということもありうるので一概には言えませんが。

 

おわりに

2回に渡って「謝罪」について考えてみましたが、振り返るにちょっと「人間関係」、それも1対1の関係に焦点を当て過ぎたかも知れません。企業や著名人が自身の不祥事について謝罪するといういわば「社会的謝罪」とでも呼べそうなものを、同じ「負担のコスト化」で説明できるかどうか等、まだまだ検討すべきことは多くあるように思います(ある程度は説明できそうな気もしているのですが)。しかしいずれにせよ、今回はここまで。

 

今回の考察が幾らかの真実を捉えているとすれば、「謝罪」も「お礼」も、それが適切に実践できるということは自分との関係の中で相手に何が起こっているのかをきちんと意識できているということ。「ありがとう」と「ごめんなさい」の大事さを改めて感じることができた、というところで締めくくりたいと思います。

 

 

「謝罪」についてあれこれと考える①

 

某日、高知大学の学生プログラム「Seekers」様が定期的に開催しておられます、「対話すなっく」と銘打たれたオンライン哲学カフェに参加する機会を戴きました。

テーマは「謝罪」

最近、何か謝ったことはあった? 逆に許したことは?

「ありがとう」と似た意味の「すみません」ってどう理解すればいい?…...

約2時間の意見交換を通じて、様々なことを考えることができました。折角のことなのでここで個人的にあれこれと考えたことを記録しておきたいと思います。また、急な参加を快く受け容れて下さったSeekersの皆様にこの場を借りて改めてお礼申し上げます。

 

「謝罪」をめぐる第一感

何か悪いことをしたと思った時は謝る。

改めて確認するほどのことではないのかも知れませんが、哲学カフェとはそういうもの。当日もこの点については特に異論はなかったように思います。むしろ面白く感じられたのは、「謝って欲しい」というラインに個人差が大きいことでした(ここで言う「謝る」は「一言断わる」くらいのものまで含む範囲の大きなものです)。

仕事で後輩がミスをする。後輩は謝る。たとえばこんな例でも、「別に謝らなくていいのに」と反応する人と「やっぱり一言欲しい」という人がいたように思います。また、そこで一言「すみません」と言えない人は「そういう人なんだな」と評価する、という声も。シビアと言えばシビアですが、よく分かる話とも感じました。

こう考えると、本格的な(?)謝罪からマナーの範疇に収まりそうなものまで、かなり広い範囲を考えていくことになりそうですが、どうも「人間関係」「感情」、そして「負担」「コスト」という観点から整理すると上手くまとまりそうだな、という印象を持ちました。以下、勝手に立てた仮説をもとに検討してみたいと思います。

 

ロボットはロボットに謝罪しない(?)

「謝罪」が人間同士のコミュニケーションに特有の現象であるかどうかは、どうも議論の余地がありそうですが(動物の「仲直り行動」に関する研究が社会心理学の分野で行われているとのことです)、ここでは措きましょう。それよりも、謝罪は感情に関わるものであろう、というところから始めたいと思います。

このことは「ロボットはロボットに謝罪しない」だろうことを考えるとよく分かるように思います。ただし、ここではロボットとは「ドラえもん」のように感情を備えた存在ではなく、作業機械に近いものを想定しています。たとえば、貨物の集積・分配所で自走式の運搬ロボットどうしが何かの弾みでぶつかったとする。人間どうしなら「すみません」とか「ごめんなさい」、「失礼」という言葉が出るところでしょうが、ロボットはまず謝ったりしないはずです。淡々と荷物を運び続けるでしょう。

それは「謝罪」という機能がないんだから当たり前だ…...という指摘は尤もですが、ここで注目したいのは「謝罪があろうとなかろうと、すべきことは変わらない」ケースが多くある、ということです。上に見た、職場での後輩のミスという例もこれに含まれる場合が多いかと思います。「後輩が謝罪してこようとこまいと、その面倒は先輩である自分がみるもの」という状況は想像に難くありません。その意味では、ロボットと同じように淡々と処理できたとしても不思議はない――そうでない場合があるということは、やはり感情が関わってくるのではないか、ということです。

 

謝られる前は怒っている(?)

では、どんな感情が関わっているのか。第一の候補は「怒り」でしょう。実際、「別に怒ってないのに謝られるケースがある」という例が会話中にもあったかと思います。

すると、考えるべきは「何に怒っているのか」でしょう。ここは色んな考え方がありそうなところなので、思い切って筆者の独断から入りましょう。謝罪に最も大きく関わってくる怒りの感情とは「不条理に対する怒り」ではないか。これが私の見解です。

同じ例を何度も見ますが、仕事中に後輩がミスをする。その面倒を見るのは自分です。この時に「謝るようなことじゃない」と思う人は、そのミスの面倒を自分が見ることに不条理を感じていないということではないか。逆に「一言あって欲しい」と思う人は、面倒を見るのが自分であることは承知していたとしても「なんで自分が…...」という不条理を感じている
こう見ると、様々なケースを同じ図式の中で理解できます。「謝るようなことじゃない」と思うのは、単純にその人の度量が広いということかも知れませんが、そのミスが初めて取り組んだ作業の中で起こったことで、だからそのくらいのミスは当たり前だと思うからなのかも知れません。いずれにせよそのミスは許容範囲内です。
対して、何度も繰り返された失敗がまた起こったのだとしたらどうでしょう——その度に面倒を見る先輩は、徐々に不条理を感じだすのではないでしょうか。「いい加減にして欲しい」という思いは、そのミスが許容範囲にないことの現れだと言えるでしょう。心が狭いという場合がないとは言いませんが、この種の怒りが「怒るのも尤も」と評価される類のものだろうと思います。

 

「負担」の「コスト」化

さて、このことを「負担」「コスト」という言葉から考えてみます。私たちは日々、様々な活動の中でコストを費やしている —— ちょっと無味乾燥すぎる気がしてあまり好きな見方ではないのですが、とまれ、こうした観点は成り立つものと思います。またこのコストは、幾つかの種類に分けることもできそうです。

ざっくりと「金銭的コスト」、「作業的コスト」、「心理的コスト」くらいに分けてみましょう。これらは単純にマイナスになるだけではなく、仕事をすれば報酬が得られますし(作業的コストが金銭の獲得に繋がる)、投資をすることで将来の作業コストを低減するというようなこともありえます。

以下、本記事では、これら「コスト」を「必要経費」に近い意味合いで理解したいと思います。言い換えると「支払って当然だと思われているもの」が「コスト」だということです。「そんなものでしょ」と思えるもの、と更に言い換えても構いません。先ほどの表現に合わせるなら、「不条理だとは思われていない支出」。これを改めて「コスト」と呼ぶことにします。

このことがよく分かる表現に、「それくらい仕事の内だから」というものがあります。先の後輩のミスの例でもいいのですが、ミスの面倒をするのは「仕事の内」…...つまりそれは「作業的コスト」であり「必要経費」なのです。新人はミスをするもので、それくらいは織り込み済みだよ、というわけ。

ところが、そんな風に思えないものが当然ながら世の中にはある。「それは本当にただのコストなのか」、また「必要だとしても、なんで支払うのが自分なんだ」…...このように見られたものを区別して「負担」と呼ぶことにしましょう。「負担」を「コスト」から分ける明確な違いは、その支払いに不条理が感じられているか否かです。

言葉の定義上当然ですが、この「負担」は耐え難い。「避けられないと分かっていても必要だとは思えない」わけで、こうして感じられた不条理さが怒りであると本記事は位置づけることができます。

ならば「謝罪」とは、こうした「負担」を「コスト」化するための行為の一部であると言うことはできないでしょうか。「謝罪」に「自分の非を認める」という要素が含まれているとすれば、それは相手に生じているものが「必要経費ではなく負担である」ことを認め、またその負担の発生源が自分であると認めることが「謝罪」だと言えます。

ここに「謝罪があろうとなかろうと、すべきことは変わらない」という先ほどのケースを重ね合わせて見ましょう。後輩が仕事上のミスをしたとする。たとえ後輩からの謝罪があろうとなかろうと、自分は自分で上役に謝罪せねばならない(=心理的な支出がある)というケースはあるでしょう。この場合、やることは同じと言ってもやはり感情面は違うわけで、「責任があるとはいえ、自分が謝罪するのはどうもおかしい」と不条理を感じることはある。これが「心理的負担」を負った状態ですが、もし後輩からの謝罪があれば、「いいよ、これも先輩の役割だからね」と負担をコストとして引き受けることができるかも知れない。割に合わない不条理なものを「それも含めて納得する」ことができる、と言い換えてもいいかも知れません。

 

 

 

思いがけず長くなってしまったので、今日はここまで。明日は「謝罪」と対になる「赦し」についても考えて見たいと思います。

 

 

現代とソクラテス ―― 今、再び哲学するということ

 

ソクラテスに関わるトピックをかれこれ10日間、あれこれと取り上げてきました。キリよく10日となったのは偶然ですが、次に進む前に、折角の機会なので現代の視点、少し離れた場所からソクラテスについて考えて見たいと思います。それは何より――記事を書き始める前には筆者自身もそこまで意識していなかったのですが――私たちが今、生きているこの時代と、ソクラテスが生きた時代には幾つかの共通点があるように思われるからです。

キーワードは相対主義とその克服。
今日までの内容を簡単に振り返るところから始めましょう。

 

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ソクラテスと倫理③ —― 魂への配慮と想起説

 

今回は、前回に引き続きソクラテスの倫理思想を解説していきます。

エレア派の哲学者たちやソフィストによって、古来の「徳」のあり方、ノモスとピュシスの一致は最早アテナイにおいて顧みられなくなりつつありました。混迷を深めていくポリスにもう一度あるべき姿を――倫理学の始まりを告げたソクラテスの情熱を見ていくことにしましょう。

 

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