創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

創造的教育協会は「思考」と「学び」をテーマに高知県を中心に活動する一般社団法人です。

事業内容は幅広く、 1.幼稚園、保育園への教育プログラム提供 2.幼児向け学習教室「ピグマリオンノブレス」の運営 3.中高生を対象としたキャリア研修 4.企業研修 5.社会人を対象とした思考力教室の運営 など、 老若男女を問わず様々な人たちに「よりよく学ぶ」実践の場を提供させて戴いております。
またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

多様性 Diversity ―― 幾つかのキーワードで現代を考えたつもりになる①

この記事は2020年12月31日の夜(だいたい21時頃~)に書いています。

晦日ということもあり、何か1年を締め括るような内容を書き残すことができれば、と思っていたのですが、悲しいかな「2020年」について、何かすっきりとまとまった考えを筆者はまだ持ち合わせていないようでした。けれど、この明瞭でないものを整理して明確にしていくことは、十分「哲学する」ことの実践であるはずです。

ならばこの際、今が西暦何年かということは考えずざっくりと「現代」という仕方で、また何となく「重要な言葉」扱いを受けている語を取り上げつつ、思うところを述べてみてもいいのではないか ―― その結果、何かこのブログらしい観点が提示できるかどうかやってみよう。

こういうわけで、年の瀬も押し詰まったこのタイミングで「幾つかのキーワードで現代を考えたつもりになる」と題して、年明けを跨いでつらつら考えてみたいと思います。最初のキーワードは「多様性 Diversity」。私たちはこの言葉をどのように理解しているのでしょうか? また、どのように理解していくべきでしょうか?

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プラトンの世界論③ ―― 宇宙の調和

前回、前々回と本記事はプラトン宇宙論の概要を辿ってきました。確認してきた図式としては、前回の最後にまとめた通り、

 ① モデルとしてのイデア

 ② 材料としてのコーラー

 ③ 変化の原動力としてのヌース

 ④ 変化の目的としての善

これらを生成変化する世界を説明する要素としてプラトンは提示しています。世界の創造主たるデミウルゴスが、理想的な存在としてのイデアを見本に、コーラー(場所)において諸々の諸物を創り出す。またそれら諸物は、より善いを状態を目指すヌース(知性)を創造にあたりデミウルゴスから授けられている。簡単に整理し直した図は、このようになっていました。

では、このようにして創られた世界における当の変化は、どのように考えられているのか。プラトンの締め括りに、これを今回は見ていきましょう。

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プラトンの世界論② ―― 変化の原因としてのヌースと善

前回は、世界の成り立ちに関してプラトンが提示した体系的な図式について、その入口部分をご紹介しました。① 創造主としてのデミウルゴス ② 創造のモデルとしてのイデアイデアを受け取る材料としてのコーラー(場所)というセットがその基本的構図となります。今回はその続きですが、ここでちょっと視線を変えましょう。注目したいのは、プラトンは彼が作り上げた世界論によって何に説明を与えようとしていたのか、ということ。 

当然そこには、プラトンだけではなく当時のギリシアにおいて広く共有され、探求されていた問いがあります。これまでの復習を交えつつ考えることにしましょう。

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プラトンの世界論① —— 世界の原因としてのイデア

気付けば、ソクラテスに続いてプラトンも随分長く取り上げています。特に政治理論については、国体論や哲人王思想など、プラトン自身の問題意識も交えてかなり踏み込んだところまでご紹介することができました。しかし、ソクラテス以前の哲学者たちとの繋がりについては見えづらい分野であったとも思います。

プラトンを離れて次のトピックへと進むにあたって、本記事では最後にプラトン宇宙論と呼ばれているものをご紹介しましょう。彼の思想には古くからの自然哲学者たちの思想の集大成とも言えそうな部分があって、議論のまとめという意味でもちょうどいいと思うからです。

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イデア論を考える③ —— 洞窟の比喩と哲人王思想

前回、前々回と本記事ではプラトンの対話篇『国家』を参照しながら、プラトン自身がイデアに関する説明として持ち出す「太陽の比喩」、「線分の比喩」を見てきました。今回はそれらに続く第三の比喩、即ち「洞窟の比喩」を見ていきたいと思います。3つの比喩の中では一番有名なものなので、聞いたことがある、という方もおられるのではないかと思います。 

けれどその前に、ここまでに触れていなかったことを1つだけ。それは『国家』という著作が政治思想を、もう少し細かく言えば国体論を扱うものだったということ。またその中でプラトン哲学を収めたものが統治者となることを最良の国制と見なす、いわゆる哲人王思想を展開していたのだということです(哲人王思想については、他に改めて記事を書きたいと思います)。

その際イデアとはまさにこの哲人王が学ぶべきものであり、真実ないし正解を把握した上で統治が実践されることをプラトンは理想としていた。このことを前提に、今回の記事をお読みいただければ幸いです。

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プラトンの政治理論とその受容 —— そしてやはり、哲学するということ

前回までに、連続6回に渡って本記事はプラトンの政治理論を扱いました。今、それが一段落したところで少し触れておきたいことがあります。それは、プラトンが提示した政治理論にどのような現代的意義があるのかということ —— 少し言い方を変えると、どんな風に私たちはプラトンと向き合うことができるのか、ということです。

このことを考えるためには、プラトンの受容史を簡単に振り返るのが良いだろうと思います。紀元前347年にこの世を去った彼の著作は、その後、どんな風に読まれていったのでしょうか。

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プラトンの政治理論⑥ —— 法律の制定と「夜の会議」

前々回、前回とプラトンの後期対話篇の一つ『政治家』から、理想的な政治家の在り方とその不可能性、また法律の安易な改変に対する危惧を取り出して順にご紹介してきました。

 しかし —— これらの記事を読んで戴いた方はお気づきのことかと思いますが —— プラトン哲人王、あるいはまた法律の起源となる立法者というまさしく理想的な政治家、「知恵」を備えイデア(=真理)を知る人物を前提しており、そのために現実とはまず一致しないと思われる主張を展開することになっていました。『国家』から『政治家』へとより後の著作に進む中で「哲人王の統治」から「法の支配」へというアイデアが生まれはしたものの、しかしここでも肝心の「法」は理想化されたままになっていたのです。

その結果、法を変更することへの危惧は示すことができたとしても、本来の方の正当性については神話的な記述に頼らざるを得なかった部分が『政治家』にはある。この困難をプラトン自身がどう見ていたのかは分かりませんが、ともかく彼本人は最晩年の『法律』において更に現実的路線へと舵を切ることになります。しかしながら、その見直しこそが哲学本来のあり方への回帰でもあった —— これが今回お話ししたいと思う筆者の見立てです。

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