創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

創造的教育協会は「思考」と「学び」をテーマに高知県を中心に活動する一般社団法人です。

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またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

ソクラテス以前の哲学者たち④ —— 生成変化と法則の思考

 

前回の記事では、「有る」というただ一つのものだけがあるパルメニデス、また彼を擁護して運動や変化を否定する議論を展開したエレア派のゼノンをご紹介しました。この議論を受けて、そもそも変化とはどのようなもので、どのようにして起こるのかという問題は影響力を増していきます。変化とは、本当にパルメニデスが述べたような幻、見かけだけのものなのでしょうか?

率直に言って、この結論は私たち人間が日常的に抱く直観に反しています。勿論、直観が正しいとは限りませんし、直観に頼りすぎることは戒めねばなりませんが、しかし、直観について説明できない議論は説得力を持ちません。その故と言うべきか、エレア派以降は「如何にして世界は変化しているという直観を擁護するか」が大きな問いの一つとなっていきました。

今回紹介するのは、一つの学派を形成したわけではありませんがいずれもこの「変化」に説明を与えようとした哲学者たちです。

 

 

ヘラクレイトス —— 万物流転と法則としてのロゴス

最初の一人、ヘラクレイトスは紀元前540年ごろの生まれで、紹介は後になりましたがパルメニデスよりも年長です。彼の主張は「万物流転(パンタ・レイ)」という言葉で知られており、これは自然界は絶えざる変化の中にあることを表しています。「同じ川に二度入ることはできない」と述べたことでも知られており、ちょうど先回の冒頭に触れた『方丈記』と同様の世界観が提示されていると言えるでしょう。

ヘラクレイトスは、アナクシマンドロスの「無限のもの」(=全てのものがそこから生じてくるところのもの)とピタゴラスの「調和」の概念を取り入れる形で、調和的な生成・消滅の変化が絶えず巡っていくというイメージで世界を捉えます。またこのイメージを「火」に喩えて万物のアルケーを火であるとしていますが、これはミレトス学派の人々がいうアルケーとは少し違う意味合いで解されるべきものです(ヘラクレイトスは、万物が文字通り火によってできていると考えたわけではありません)。

先に私たちは「世界は変化している」という直観を確認しました。ヘラクレイトスはこの直観を押し進めて、いわば「変化だけがある」という図式を提示したのだと見ると分かり易いかも知れません。ただし、一方で「変わらないものがなければならない」というパルメニデス的な直観も、容易く否定できるものではありません。2人のどちらかが正しい、という仕方で決着するかというと怪しいものです。

すると、どうやらこの両方がなければ上手く物事は説明できないのではないか(これも勿論、そうとは限らないのですが)…...このような考えから、説明原理を2つ採用する理論を二元論と言います。そしてヘラクレイトスの場合、このもう一つの原理とされたのはロゴスでした。「ロゴス」は非常に多義的な言葉で、言葉・知性などを表す語なのですがここでは理法、つまり法則であると理解することができます。どれだけ変化が生じようとも、その変化が従うところの法則が変わることはない、というわけ。

このヘラクレイトスの着想によって、ギリシアの哲学は更に深められていくことになります。以前の記事で述べたことを振り返りながらまとめると、彼が考察したものは3種類目のアルケーとも言うべきものだったのです。1つは、ミレトス学派が示したアルケー。これは「水」や「空気」が想定され、「物事は何で出来ているか」という根源的な物質(≒=質料)、そして自然界の中にあるものを主な対象とした思想でした。続く2つ目は、ピタゴラス学派によるもの。「数」の調和によりこの世界は成り立っている——これは物質というよりも成り立ち、構成ないし設計(≒形相)を問題にしたものです。そして今、付け加えられたのがヘラクレイトスに端を発する3つ目、即ち法則としてのアルケーなのです。

世界は変化している。しかしそこには秩序、法則としての変わらない原理、アルケーがある。この発想は、以降においてエレア派に対立した人々の基本姿勢であったと言うことができます。

 

エンペドクレス —— 四元素説の提唱

如何にして世界の内で我々が経験する変化を説明するか――この問いに、よりパルメニデスに近いところで答えようとした人もいました。エンペドクレス(B.C.490頃 - B.C.430頃)はその一人です。彼はパルメニデスの主張を部分的に受け入れて「決して変化しないものがある」ことを認めました。ただし、それには複数の種類があるのだと考えたのです。

、そして空気。これらがエンペドクレスにより「リゾーマタ」(根)、万物のアルケーとされたものです。これら自体は一切変化しないが、しかしこれらの組み合わせ、そしてその組み合わせの移り変わりによって世界には様々な変化が生じる——これが四元素説と呼ばれ、後にはキリスト教世界の基本的な世界観となったものです。「変化しないものによって変化を説明する」というアプローチは、以降の科学的探究における一つのスタンダードにもなりました。

では、これら四つの元素はどのようにして多様な事物を形づくるのか。エンペドクレスの回答は、引き付け合いこれら元素の結合と、「憎」による分離がその原理だというものでした。いかにも非科学的に見えるかも知れませんが、しかし、ここでは愛と憎が単なる法則である以上に、実際に引き付け合い、引き離し合う「力」としても理解される点は注目してよいでしょう。変化を実際に引き起こす何らかの働きが必要である、ということがエンペドクレスには分かっていたのでしょう。

 

アナクサゴラス —― 原理としての知性

もう一人ご紹介しておきたいのがアナクサゴラス(B.C.500頃 - B.C.428頃)。この人は以前にご紹介したミレトス学派アナクシメネスの系譜に属すると言われ、また哲学をアテナイにもたらした最初の人であるとも言われています。アテナイは比較的保守的な気風のポリスだったこともあって、当時の先端思想はむしろイタリアやアナトリアがリードする形で発展していました。

そんなアナクサゴラスですが、彼もまたエンペドクレスと同様、パルメニデスの主張を受容しながら変化に関する説明を試みた一人でした。アナクサゴラスの場合は、エンペドクレスのような四元素説を採っていません —— 生成も消滅もなく、常に同一であり続ける無限の「同質のもの」(=同質部分体)がある、という理論が彼によって提示されたものでした。

では、どうやって多様なものが生じるのか。その理論は、「全てのものが全てのものの中に含まれている」という仕方で典型的に表されるものです。言い換えると、上の「同質のもの」が「無限」であるという時、アナクサゴラスは量的に無限であるだけでなく、質的にも無限であるものを措定していたのです。

このことは、食物の消化・吸収を例にすると分かり易いでしょう。例えば「大豆を食べる」⇒「消化・吸収」⇒「身体を構成する筋肉になる」といった具合です。この時、大豆は一見して似ても似つかない筋肉へと変化しているわけですが、これを「始めから大豆には肉になるための要素が含まれていた」と考えるのがアナクサゴラスのアプローチです。つまり、あらゆるものは、あらゆるものになりうる無限の質を予め備えており、多様なものが現れるのは、無限の質に偏りが生じた結果、最も目立つものが表に出ているに過ぎないのだとアナクサゴラスは考えたのです。

では、この「同質のもの」の偏りはどのようにして生じるのか。アナクサゴラスの答は、宇宙を支配するヌース(知性)の働きによる、というものでした。混沌とした原初の状態に秩序をもたらすもの、というイメージでしょうか。注目すべきは、これがヘラクレイトスの「ロゴス」とは異なり、実際に何らかの働きかけをするものとしてヌースが考えられていたこと。アナクサゴラスは、ヌースが宇宙に旋回運動をもたらし、これを秩序づけるのだと述べています。単なる「法則」ではないということですね。

またもう一点、エンペドクレスが述べた「愛」「憎」とも異なり、ヌースは明らかに世界の外側、超越存在として考えられていたことも重要です。世界には含まれず、世界の外から世界を支配する存在——やがてキリスト教世界では、この位置に「神」を置くことになりますが、その発想のルーツはアナクサゴラスにまで遡るということです。

 

 

今回ご紹介した3人は、ミレトス学派と比較して後の世代に当たる自然哲学者たちですが、この百年ほどの間に大きな進展のあったことがお分かりいただけるかと思います。具体的な「水」や「空気」としてアルケーを捉えようとしていた初期から、無限のもの、同質のもの、また法則として、力としての知性へ ―― 高度な抽象的思考へと議論は移っていきました。