「無知の知」——ソクラテスと哲学の始まり
哲学はいつどこで終わりを迎えるのか。何か無暗に壮大な問いですが、これは正直なところ分かりませんし、分かりようがありません。けれどいつどこで哲学が始まったのか、ということであれば大まかには言うことができます。古代ギリシアはアテナイ(現在のアテネ)で、ソクラテスという一人の哲学者とともに。
今回はこのソクラテスにまつわるエピソードと、そこから見えてくる哲学の在り方、とりわけ「無知の知」と呼ばれるものをご紹介したいと思います。
哲学の祖・ソクラテスとアテナイの盛衰
ソクラテスが生まれたのは、紀元前469年頃だと言われています。彼の生涯はギリシア全土を巻き込んだ2つの戦争に深く関わっており、またそれは古代ギリシアを代表するポリス(都市国家)アテナイの栄華と衰退を形づくるものでもありました。
その戦争の1つは、ペルシア戦争(B.C.499-B.C.449)。アケメネス朝ペルシアをギリシアの都市国家連合軍が撃退したこの戦争の中で、アテナイはギリシアにおける支配的地位を確立しました。しかしこのアテナイの支配に他のポリスが反抗し、生じたのが2つ目の戦争、ペロポネソス戦争です(B.C.431-B.C.404)。こちらにはソクラテス自身も重装歩兵として従軍したと言われていますが、この戦争に敗れたアテナイは、なお強大なポリスではあり続けましたがギリシアの覇権を失うことになりました。
最盛期からの転落は、アテナイに政治的混乱をもたらします。また、アテナイは比較的保守的な気風のあるポリスだったのですが、繁栄により周囲から新しい思想が流入していたこともあり、敗戦の影響は思想的な混乱にも表れていました。
ソクラテスと哲学は、そうした混乱の中で第一歩を踏み出したのです。
デルフォイの神託と「無知の知」
ある時、ソクラテス友人(弟子)の一人、カイレフォンがデルフォイの神託所で巫女に尋ねます。「ソクラテス以上の賢者はいるだろうか」。巫女は答えました。「一人もいない」。
この神託を伝え聞いたソクラテスは訝しみます。自分にはさしたる知恵もないのに、どういうことだろうか? その意を量るため、彼は自分よりも賢いと思われる人たちを訪ね歩いてみることにしました。そして、あることに気付くのです。
始めに訪ねたのはある政治家でした。しかし彼は沢山のことを知っていると思われていて、また彼自身もそう思っているようなのですが、実際には確かなことは何も知らないらしい。知っていると思っているだけだったのです。
私たちはどちらも、美や善について実際には何も知ってはいない 。けれど、彼は何も知らないのに知っていると思っているのに対して、私は知らない通りに知らないと思っている。この点において、 私には自分がわずかながら彼に優っているように思われる。
ソクラテスはその後も詩人や職人を訪ねて回りましたが、 このことは変わりませんでした。皆、自分の知らないことを知っていると思い込んでいる。ならば、知らないことを知っている自分の方がその分だけ多く知っている――これが「無知の知」という言葉で知られるものです。やや誇張した言い方をすれば、このわずかばかりの「知」とともに哲学は始まったと言えるでしょう(「無知の知」という言葉をソクラテスが実際に語ったわけではないのですが)。
「知っている」が可能性を潰す
ソクラテスがもたらした反省は、その死後2400年が過ぎた現在でもなお有効です。
何かを「知っている」という思いは、往々にして私たちの眼を曇らせます――また仮に本当に知っているのだとしても、それ以上に知ろうとすることの妨げになりがちです。そしてそれは、気付かない内に「○○に決まっている」(だからそれ以上考える必要も知る必要もない)という思い込みになってしまう。しかし、それで得られるものがあるでしょうか?
およそあらゆる事柄の進歩、発展は「どうすればよりよくなるか」という試行錯誤の先にあります。対して、「既に知っていること」への拘りは進化でなく停滞をもたらしてしまう。それまでの常識、既成概念を乗り越えようとする意志が不可欠なのです。
本当に知っていると言えるだろうか?
まだ知らないことがあるのではないか?
よりよく知るためにはどうすればいいのか?
常に問いを開いたままにしておくこと。これが即ち、可能性を開くということ。
「無知の知」は、更に先へと進むためのスタートラインなのです。
ソクラテスの死
当時アテナイはソフィスト(「賢い人、教えてくれる人」の意)と呼ばれる人々が多く活動し、その中にはしばしば上辺の知識と詭弁を弄して利得を得ようとする人物が紛れていました。しかし政治的な混乱は、決して望ましいとは言えない弁論の術が幅を利かせる状況に至り、知的混迷はますます深まっていたのです。
ソクラテスの思想は、こうした混沌の中で「知っている」ということを見つめ直し、「よく生きる」という理想を取り戻そうとしたものだったと言うことができるでしょう。しかし、こうした彼の姿勢はアテナイでは受け容れられませんでした。それどころか、敗戦とアテネの衰退をもたらした混乱の扇動者であるというレッテルまで貼られてしまうのです。
最後には、彼は裁判に掛けられ死刑の判決を受けます。この裁判は有罪/無罪を決める第一審と量刑を決める第二審からなっており、また量刑については原告と被告がそれぞれに提案して決めることになっていました。法廷での振舞い次第で死刑は十分に免れえたはずですが、しかし、ソクラテスはそれをよしとしません。黙っていれば生き延びられたであろうところで、彼は信念を貫くことを選びました。
それは神の指令に逆らうことであり、故に口を閉ざすことはできない、といえば諸君は私が真剣だとは信じないだろう。また人にとって最善のこととは徳について語らう日々であり、また諸君が私に尋ねる事柄は全て私や諸君自身を試すものだということ、そして試されることなき生など生きるに値しないのだと言うなら――なおさら諸君は信じないだろう。
潔く刑を受け容れたソクラテスは、毒杯を呷りこの世を去ります。
そして哲学は続く
ソクラテスは後世に一冊も書物を遺しませんでした。これは「知っている」と思い込むことの危険をよく知るソクラテスにとって、対話を経ていない知識の伝達は望ましいものではなかったからだと言われています。直接の生きた会話の中で「知らないこと」に気付いていく、問答法と呼ばれる手法を彼は好んでいました。これはまた産婆術とも呼ばれています。何かを生み出す手助けをする術、ということです。
彼の思想や言行は、友人や弟子たちによって書かれた作品により今に伝わっています。そして今日も、哲学に向き合う人々の心の片隅で「知らないことに気付いているか?」と戒めの言葉を囁いているのです。