創造的教育協会の「哲学ブログ」

幼児から社会人まで、幅広く「思考」と「学び」をテーマに教育・学習事業を展開する一般社団法人。高知県内を中心に活動中。

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またこの他、学材の研究・開発等、学び全般に関わる活動に携わっています。

ソクラテスの問答法 ―― ものごとの「定義」を求めて

 

前回の記事に続いて、ソクラテスの足取りをもう少し追ってみましょう。今回は、その前回記事でも少しだけ触れた問答法について見ていきたいと思います。

ソクラテス的対話などとも呼ばれるこのプロセスは、ものごとの「定義」を巡って交わされたソクラテスと当時のギリシア人たちのやり取りです。そしてこの「定義」を巡る議論は、その後の哲学の歴史を大きく方向づけるものでもありました。

 

 

「敬虔」について――対話篇『エウテュプロン』

ソクラテスが実際に行ったとされる問答をご紹介しましょう。『エウテュプロン』という対話篇に収められた同名のエウテュプロンという神官とソクラテスの対話を、ダイジェストでお送りします。

ソクラテス、「敬虔」についてエウテュプロンに問う

 二人が出会ったのは、宗教関係の訴訟審理を扱う役所の前。ソクラテスは自身が死刑判決を受けることになる裁判の予備聴取のためにここを訪れていました。

 折しも二人は、「敬虔」と「不敬虔」を巡る裁判に巻き込まれていたところ(ソクラテスは被告、エウテュプロンは他の裁判の原告でした)。そこでソクラテスは、エウテュプロンにこの敬虔について尋ねます。

 果たして、「敬虔」や「不敬虔」は常に同じ意味であり、全ての敬虔な事柄、不敬虔な事柄を含むような「敬虔・不敬虔の概念」はあるのだろうか?――と。

 

②エウテュプロン、「敬虔」と「不敬虔」を定義する

 勿論、とエウテュプロンは答えます。敬虔とは、殺人や神の冒瀆その他の罪を犯したものを――それが父母であったとしても――告発することであって、不敬虔とはそうしないことだと(彼はちょうど、実の父親を殺人の廉で訴えているところでした)。

 対して、そうじゃないんだ、ソクラテスは言います。敬虔や不敬虔の例ではなく、それによって敬虔なものが敬虔であり、不敬虔なものが不敬虔であるようなものを知りたい――つまりソクラテスは経験や不敬虔の「定義」を求めたのです。

 成程、とエウテュプロン。そこは彼も優秀な神官ですから、即座に次のように答えました。「神に愛でられるものが敬虔であり、愛でられないものが不敬虔」であると。

 

ソクラテス、定義を吟味する

 これは素晴らしい、とソクラテス。しかしどうだろうか――とエウテュプロンの定義について検討していくことを提案します。この検討こそが、問答法の鍵なのです。

 例えば、神々も時に争う(当然、二人はギリシア神話をよく知っています)。そしてこの争いは、しばしば善悪を巡っても行われる。すると、同じ一つの事柄がある神によっては愛でられ、ある神によっては愛でられないということがある。ならばこの事柄が敬虔か不敬虔か分からなくなるのではないか。つまり、エウテュプロンの定義は不十分だとソクラテスは指摘したのです。

 

ソクラテスとエウテュプロン、更に定義を吟味する。

 そこでソクラテス「全ての神に愛でられるものが敬虔」であり、「全ての神に憎まれるものが不敬虔」であるということなのか、と定義の修正を提案します。エウテュプロンもこれに同意するのですが――いやいやそれでもどうだろう、とソクラテスは続けます。

 ソクラテスの疑問はこうでした。「ある事柄は、敬虔であるから神に愛されるのか。それとも、神に愛されるから敬虔なのか」——エウテュプロンは敬虔だから愛されるのだ、とこれに応じます。

 しかし、だとすると「神に愛される」ということは「敬虔」であることの性質の一つに過ぎないぎないことになる。愛されるから敬虔なのではなく、敬虔であるから愛されているに過ぎない。また従って、「全ての神に愛でられるものが敬虔」であるという定義もまた不十分であることになります(論理的に補足すると、全ての神に愛でられていても敬虔でないものがありうるということです)。

 

⑤エウテュプロン、途方に暮れる

 この指摘に、エウテュプロンは上手く答えられません。そこでソクラテスは、敬虔は「正しさ」に関わるものではないかと水を向け、エウテュプロンもこれに同意します。では、「敬虔」は「正しさ」の一部であるとして、どんな「正しさ」の一部なのか。

エウテュプロンはこの問いに、神々への世話、奉仕に関わるものだと答えました。しかし対話を進める内に、この定義も怪しくなります。

 神々への奉仕を行うとして、しかし人間が神々に捧げものをしても神々には何も利益にならないだろう、とソクラテスは言います。神々には不足しているものなどないのだから――つまり、敬虔なものとは人間から神に贈られはするが、神には何の利益もないし、愛されもしないのではないか。

 エウテュプロンは、神々に利益がないことは認めても、敬虔が神に愛されるものである点は譲りません。すると、エウテュプロンの定義は「神に愛されるもの」という既に問題があると分かったものに戻ってしまう。つまり、定義かお互いが対話の中で合意した事柄の、どれかが間違っているソクラテスは指摘します。

 エウテュプロンはこの指摘は認めるのですが、それ以上の対話を断って去っていく――以上が対話のあらましです。

 

問答法と定義、そして「無知の知

この対話からは、幾つかのことが見えてきます。一つは、ここに登場したエウテュプロンのように何かを「知っている」と思っていても、よく吟味してみるとその知識が曖昧な場合があるということ。こうして前回に見た「無知の知」へと相手を導くのが、ソクラテスが実践した教育手法でもありました。ここに私たちは優れた教育者としての姿を認めることができるのです。

当時のアテナイが急速な変化と混乱の中にあったこと、そしてソフィストと呼ばれる人々が上辺の知識と詭弁を有用な術として教え広めていたことは前回に見た通りです。これは言ってみれば「知っていることにする」ための手法であり、賢さを装うための技術でした——しかし、そんな方法を覚えても実際に知識を深め賢くなれるわけではありません。対するソクラテスの問答法は、対話を通じて人々が学び始めるきっかけを作り、また思い込みに囚われず自ら考えを深めていくための機会を提供するものでした。

21世紀を迎えて久しい現在、日本でも「主体的・対話的で深い学び」が掲げられていますが、そこには知識教育への偏重を危惧する問題意識があります。本当の意味で学ぶということはどういうことなのか——ソクラテスの姿勢は、今こそ振り返られるべきものだと言えるかも知れません。

また、この吟味によく表れていたように、ソクラテスにとって知識とは「定義」を知ることとして位置付けられていた、ということは注目に値します。上に紹介した例で言えば、「それによって敬虔なものが敬虔であり、不敬虔なものが不敬虔であるようなもの」。これこそソクラテスが求めたものでした。この問題意識は、彼の弟子であるプラトン、更にアリストテレスへと受け継がれ、やがて「本質essence」という言葉とともに西洋哲学の中心的問いの一つとなります。その意味で、ソクラテスの問答は由緒ある哲学的問いのルーツなのです。

 

長くなりましたが、最後に一つ、サン=テグジュペリの『星の王子さま』から引用して終わりにしましょう。

本当に大切なものは、眼では見えないんだよ。 

 ここでいう本当に大切なもの(l'essentiel)こそ、ソクラテス以来、哲学者たちが求めてきた「本質」というものなのです。